静岡県沼津市の城跡を二つ歩きました。市街地のまん中にある沼津城跡と、そこから東へ少し走った原の丘にある興国寺城跡です。
先に正直な感想を書いておきます。どちらも遺構はあまり残っていませんでした。沼津城のほうは完全に公園で、石碑と説明板と、壁ぎわに積み直された石垣があるだけ。興国寺城は土塁と空堀が残るものの、建物は何もありません。城好きが「見応えがあった」と言うタイプの場所ではない、というのが率直なところです。
ところが調べてみると、沼津城のほうは幕末史のど真ん中にありました。それも、この記事を書くのが楽しくなるくらいに。順に書いていきます。
沼津城 ― 老中を出しつづけた城

中央公園に立つこの説明板の、右端の年表がすごいのです。目を通した瞬間に「これは幕末の記事が書ける」と確信しました。書き出してみます。
安永六年(1777)、水野忠友が沼津に築城を許される(二万石)。天明元年に五千石、天明五年にさらに五千石を加増されて三万石となり、このとき忠友は老中になります。享和二年に忠友が死去し、忠成が家督を継ぐ。
そして文政元年(1818)、水野忠成が老中に。文政四年には貨幣改鋳に成功して一万石加増(四万石)、文政十二年にもう一万石加増されて五万石。天保三年には沼津城の二重櫓が完成しています。二万石で始まった藩が、老中の職と貨幣改鋳で五万石まで伸びた。城が立派になっていく理由がそのまま年表に出ているわけです。
ここから先が幕末です。安政元年(1854)、「安政東海地震」によって沼津城損傷。安政五年に忠寛が家督を継ぎ、文久二年(1862)、忠寛は病気のため隠居、忠誠が家督相続。そして慶応二年(1866)、第二回長州征討。忠誠、老中になる。翌慶応三年、大政奉還。明治元年(1868)、水野家、上総国菊間に転封。
第二次長州征討のさなかに老中を出しているのです。幕府が最後の力を振り絞って、そして失敗した、あの戦争のときの幕閣に、この城の主がいた。沼津藩は五万石そこそこの藩ですが、譜代として幕政の中枢に何度も人を送り込んだ家でした。そして幕府が倒れると、上総国菊間へ移されます。
★そして城は、日本で最初の近代兵学校になった


本丸跡の説明板を読んでいて、思わず声が出ました。転封のあとの一文です。
慶応四年(1868)、水野氏の菊間転封の後、城の建物は沼津兵学校の施設として使われました——と。
沼津兵学校。日本で最初の、近代的な士官養成学校です。
経緯はこうです。大政奉還と戊辰戦争の結果、徳川宗家は駿府藩(静岡藩)七十万石へ大幅に減封され、徳川家達を当主として駿河・遠江へ移りました。このとき膨大な数の旧幕臣が移住してきます。その旧幕臣たちが、フランスに倣った軍隊の養成を掲げて、明治元年十一月、水野家が去ったばかりの沼津城内に兵学校を開いた。教授開始は同年十二月でした。
頭取をつとめたのが西周(にし あまね)です。慶応三年にオランダ留学から帰ったばかりの、当代随一の洋学者。語学では渡部温、乙骨太郎乙といった学者が教授に並びました。
そして輩出した人物が、また濃い。井口省吾、加藤定吉、赤松則良といった軍人。そして田口卯吉(『日本開化小史』の経済史家)、島田三郎(のちの政治家・ジャーナリスト)。幕末の軍艦を語るとき必ず出てくる赤松則良が、この城跡にいたわけです。
さらに面白いのは、この学校が軍事だけで終わらなかったことです。予備校として設けられた附属小学校は、現在の沼津市立第一小学校の前身。附属病院は、現在の沼津市立病院の前身。負けた側の武士たちが移り住んだ土地に作った学校が、そのまま町の学校と病院になって今も続いている。
兵学校そのものは長く続きませんでした。明治五年、政府の陸軍兵学寮と統合されて東京へ移ります。城の建物については、説明板は「明治四年の兵学校廃止後払い下げられ、姿を消しました」と記しています。いずれにせよ、沼津城は取り壊されて消えたのではなく、一度は近代日本の学校として使い倒されてから消えたということになります。
石碑と説明板しかない公園だと思って歩いていた場所が、急に違って見えました。
足もとの石は、その前の城のものだった


沼津城の下には、もう一つ城が埋まっています。三枚橋城です。
説明板によれば、天正七年(1579)ごろ、武田信玄の子・勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗して築いた城。慶長六年(1601)に大久保治右衛門忠佐が城主となりますが、慶長十八年の忠佐の死後に世継ぎがなく大久保家は断絶、翌年三枚橋城は廃城となります。以後およそ百六十年、この地に城はありませんでした。
そこへ安永六年の水野忠友です。沼津城は三枚橋城の北半分を利用して造られ、規模は三枚橋城より小さかったと説明板は言います。武田の城の上に、老中の城が半分だけ建った。
本丸址の石碑の周囲に据えられている石は、昭和四十八年に上土町の銀行の新築工事で地中から出てきた、三枚橋城当時の石垣です。壁ぎわに積み直された石垣も同じく地下から出たもの。地面の下から順に、武田・大久保・水野・兵学校・現代の公園と重なっている場所でした。
興国寺城跡 ― 幕末には、消えて二百六十年が経っていた

沼津市街から東へ。原の集落を抜けた丘の上が興国寺城跡です。ここについては、最初にはっきり書いておきます。この城に幕末は一切ありません。
廃城は慶長十二年(1607)。ペリー来航の二百四十六年前です。幕末歴史ガイドとして無理に幕末をこじつけることはしません。ただ、それでも歩く価値のある城跡でしたし、書いておきたい接点もありました。


説明板によれば、興国寺城は愛鷹山から浮島沼に向かって張り出した尾根を利用した、戦国から江戸初期の城郭跡。愛鷹山の裾を通る根方道と、浮島沼を縦断して海岸へ至る江道・竹田道との結節点にあたる交通の要所でした。土塁と空堀で区切られた「本丸」「二ノ丸」「三ノ丸」に、北の「北曲輪」と谷を隔てた「清水曲輪」を加えた構成で、三方を天然の泥田沼に守られ、古絵図には「深田足入」と記されているそうです。
そして何より、ここは北条早雲(伊勢宗瑞)が初めて城主となった城、いわば旗揚げの城です。

説明板の歴代城主表を見ると、この城の性格がよくわかります。長享元年(1487)以後の北条早雲に始まり、富永三郎左衛門政家、青地弾正と続いて、天文六年以後は今川、永禄十二年以後はふたたび後北条、元亀ごろから武田、天正十年に徳川、天正十八年以後は豊臣(河毛惣左衛門尉重次)、そして慶長六年からまた徳川。駿河・甲斐・伊豆の境目に位置していたため、城主が目まぐるしく替わったと説明板は書いています。この一覧表そのものが、戦国の東海道の縮図です。
城が消えた理由が、いい話だった


最後の城主が天野三郎兵衛康景です。この人の説明板が、今回いちばん心に残りました。
天文六年(1537)に三河国で生まれ、徳川家康に仕えた人。岡崎三奉行の一人に任ぜられ、「彼是偏無しの三郎兵衛(かれこれかたよりなしのさぶろべえ)」と評された公平無私な人物でした。家康の「康」の字を拝領して康景と名乗り、慶長六年(1601)、関ヶ原の合戦後に一万石を与えられて興国寺城主となります。
ところが慶長十二年(1607)、事件が起きます。城の修築用の竹木を盗もうとした盗人を、康景の家来の足軽が殺害してしまった。その盗人が天領の農民だったため、康景と代官・井出志摩守正次の争いになります。
家康の側近本多上野介正純は、康景に足軽を差し出すよう勧めました。しかし康景は拒みます。足軽をかばって、城を捨て、行方をくらました。
このため康景は改易となり、興国寺城は廃城。康景はその後、慶長十八年(1613)に相模国沼田で没しました。墓は南足柄市沼田の西念寺にあるそうです。
一万石と城を、足軽一人と引き換えに捨てた。「彼是偏無し」と評された男らしい終わり方です。そしてこの康景に足軽の引き渡しを迫った本多正純こそ、のちに宇都宮城の釣天井事件で改易される、あの正純でした。人を追い詰めた側が、十五年後に自分も同じ目に遭う。
残っているもの ― 土塁と、空堀と、神社

本丸跡には穂見神社が鎮座しています。神社の背後にそびえる本丸の北側土塁は、西や東の土塁より一段高く築かれていて、その上面の南側に石垣が施された「(伝)天守台」があります。


この天守台の説明が丁寧でした。発掘調査で二棟の建物の基礎石が見つかったものの、瓦の出土は無かったため、一般に想像されるような天守閣が建っていたわけではない、とはっきり書いてあります。ただし城下から見てとりわけ高い位置にあるこの建物は、象徴的な建物に見えたことでしょう、と。
「天守台」という札が立っていると、つい天守閣を想像します。それをきちんと否定したうえで「でも象徴ではあった」と補う書き方が誠実で、こういう説明板に出会うと現地に来た甲斐があったと思います。


見どころは、なんといっても大空堀です。本丸は巨大な大土塁に囲まれ、南側は空堀で区切られていました。現在、南側の土塁は壊され空堀も埋められていますが、残った部分の落差は相当なもので、階段を下りていく人の姿がずいぶん小さく見えます。
本丸の東側は古絵図に「カクシ口」と記され、そこから本丸土塁の外側の裾を通って大空堀に抜ける小道が今も残っているとのこと。カクシ口の南側の土塁は「石火矢台」と伝わるそうです。二ノ丸と三ノ丸の境は今では判然としませんが、三ノ丸から二ノ丸へ至る入口は古絵図に「升形之跡」と記され、発掘では石垣を伴う空堀や土橋が出ています。
土は正直です。建物は何も残っていませんが、土塁と空堀を歩けば、この城が何を守ろうとしていたかは体でわかります。

ちなみに城跡の入口には、三つ鱗の紋を染めた「駿州興国寺」の幟が立っていました。三つ鱗は北条氏の家紋です。案内板の整備といい、草の刈られ具合といい、この城跡が地元にきちんと守られていることが伝わってきます。遺構は乏しくても、手入れは行き届いている——そういう史跡でした。
歩いてみて ― 城が消えたあと、そこは何になったか
冒頭に書いたとおり、遺構という点ではどちらも物足りない城跡でした。片方は完全な公園、片方は草の斜面と神社。「見応えのある城跡」を期待して行くと、正直、肩透かしを食うと思います。
それでも二つを続けて歩いて、面白い対比が見えてきました。城が消えたあと、その場所が何になったかという一点です。
興国寺城は、足軽をかばった城主が去ったあと、そのまま野に還りました。四百年かけて、土塁と空堀と神社だけが残った。
沼津城のほうは違います。老中を出しつづけた城が、主を失ったその年に負けた側の人間たちの学校になった。西周が教壇に立ち、のちの海軍造船の中心人物や歴史家や政治家がそこから出て、附属の小学校と病院は今も沼津の町で続いている。城が消えたのではなく、城が学校に化けたのです。
幕末という時代は、負けた側の行き先まで含めて見ないと半分しかわからない。石碑と説明板しかない公園で、それを教わった気がします。
アクセスと地図
沼津城本丸跡(中央公園)/静岡県沼津市大手町。JR沼津駅から徒歩十分ほど、狩野川のほとりです。「沼津城本丸址」の石碑、沼津城本丸跡の説明板、「沼津城のあゆみ」の説明板、そして復元された三枚橋城の石垣が見どころ。所要は十五分ほど。城跡というより公園なので、期待値の設定はお忘れなく。
興国寺城跡/静岡県沼津市根古屋。国指定史跡で、続日本100名城にも選ばれています。県道沿いに赤い文字の石標が立っているのが目印。駐車場から本丸まではすぐですが、空堀や天守台まで歩くので歩きやすい靴が必須です。草が伸びる季節は足もとにご注意を。スタンプは現地に設置されています。
