| 市村辰之助 | |||
| 職名 | 局長附 | ||
| 出身 | 美濃大垣 | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 脱走 | ||
市村鉄之助の兄。
慶応三年に入隊し鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還します。
五兵衛新田駐屯地まで在隊するが、のちに脱走し明治五年に死去しました。
市村辰之助をもっと深く—弟は土方歳三の小姓でした
この人を語るには、弟から入るのが早いかもしれません。土方歳三の小姓・市村鉄之助の兄が、この市村辰之助です。
大垣藩重臣の子、兄弟そろって入隊
父は大垣藩重臣・小原鉄心の部下、市村半右衛門。慶応三年の秋、兄弟そろって新選組に加わりました。
配属は分かれています。
- 兄・辰之助 → 局長附人数(見習いで平隊士に準じる身分)
- 弟・鉄之助 → 両長召抱人(局長・副長の身のまわりを務める小姓)
この配属は大垣市立図書館の調査回答として記録されており、兄弟であることも裏が取れています。
兄は脱走し、弟は残った
甲州勝沼の戦いに敗れたあと、辰之助は弟に脱走を持ちかけました。鉄之助はこれを断ります。
兄は新選組を出て大垣藩兵となり、戊辰戦争で戦功を挙げました。向という女性と結婚して商人となり、明治五年に没しています。墓は大垣市船町の全昌寺にあります。
そして弟の鉄之助は土方のもとに残り、箱館で土方から写真と遺髪を託されて、日野の佐藤彦五郎家へ届ける役を負いました。いま残る土方歳三の有名な写真は、この少年が運んだものです。
同じ日に入った兄弟が、こう分かれた
慶応三年秋、同じ日に同じ隊へ入った兄弟が、半年後には別々の道を選びました。兄は藩へ戻って官軍として戦い、弟は最後まで土方についていった。
どちらが正しかったという話ではありません。兄は明治五年に商人として死に、弟は土方の写真を後世に伝えました。新選組に入った若者たちの分かれ方が、この兄弟にきれいに出ています。
なお辰之助の生年は分かっていません。弟の鉄之助が安政元年生まれですから、それより前ということになります。
新選組隊士全456名情報
脱けた先で、官軍として戦っています
兄が脱走したと上に書きましたが、脱けたあとの足取りまで分かっています。戸籍の上では「鋠之助」と書かれ、弘化三年に大垣藩の市村半右衛門の二男として生まれました。慶応三年の秋、弟の鉄之助を連れて入隊し、局長附人数という見習いの身分につきます。そして慶応四年三月、五兵衛新田の屯所を最後に隊を離れました。
五兵衛新田という場所で
五兵衛新田は、鳥羽・伏見に敗れて江戸へ帰った新選組が十九日間だけ屯所を置いた村です。石田入道のページに書いたとおり、着いたときに四十八人だった隊が、出ていくときには二百二十七人になっていました。同じ場所で、新しく入ってくる者と、これ以上は付き合えないと見切った者がすれ違っていたことになります。市村辰之助は後者でした。
大垣へ帰り、今度は官軍として
脱けたあとは大垣藩へ帰参し、藩兵として戊辰戦争を戦って戦功を挙げたと伝わります。大垣藩は鳥羽・伏見の前は幕府側でしたが、戦のさなかに新政府側へ転じた藩です。つまりこの人は、前の年まで新選組の隊士だった身で、今度は官軍の兵として同じ戦争を戦ったことになります。弟の市村鉄之助が箱館まで土方歳三に従い、その遺品を日野へ届けたのと、ちょうど裏表の道です。維新後は商いに入り、墓は大垣の全昌寺にあるとされます。ただし亡くなった年については、明治五年とする資料と、それを記さない資料とがあって定まりません。
市村辰之助の生きた時代—大坂から江戸へ
江戸への撤退 慶応四年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いに敗れた新選組は大坂に退きました。ところが将軍慶喜は、まだ戦う兵が残っていたにもかかわらず、六日の夜にひそかに大坂城を抜け出し、軍艦・開陽丸で江戸へ帰ってしまいます。
富士山丸で 残された新選組の隊士たちは、幕府の軍艦・富士山丸などに乗って大坂を離れ、正月の半ばに江戸の品川に着きました。負傷した隊士の中には、船の中で息を引き取った者もいます。大垣出身の市村辰之助は、弟の鉄之助とともに新選組に加わった隊士で、この江戸への撤退ののちに隊を離れました。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:市橋鎌吉(平隊士)
次の隊士 ▶:市村鉄之助(両長召抱人)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

