守谷藩/土岐家1万石:土岐定義 摂津高槻藩へ加増転封のため廃藩

守谷藩 土岐家1万石 最後の藩主 土岐定義
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守谷藩の歩み

徳川家康の家臣として甲斐国巨摩郡切石一万石を領していた「菅沼定政」は、豊臣秀吉の「北条征伐」後に主君「家康」が関東へ移封になると、北条家に加わって改易された下総相馬氏の旧領である相馬郡に領地を移されることになりました。これが守谷藩の立藩です

その後、寛永十九年(1642年)、「堀田正盛」が信州松本から十一万石で「佐倉城」に入封しました。守谷はそれより前の寛永十五年(1638年)から正盛の領地となっており、佐倉領の一部となりました。正盛の三男「堀田正俊」が一万三千石で守谷領を継いだが、守谷城には入城しませんでした(守谷には陣屋を置き、家臣を詰めさせたとされます)。

天和元年(1681年)最後の城主「酒井忠挙」が家督を継いで前橋藩主となり、守谷領が幕府に収められるまでの間、城下町としての繁栄をみたが、その後に「関宿藩」久世氏の領地になり、城下町でなくなってからは衰退する一方で周辺の農村と同じ環境になりました。

幕末の守谷を治めていたのは、坂下門外の変で失脚した老中の家でした

守谷市の公式の説明によれば、天和元年(1681年)に最後の城主酒井忠挙が転じたあと、守谷は関宿藩久世氏の領地となりました。『旧高旧領取調帳』にもとづく調査でも、相馬郡の守谷・市之代・貝塚・辰新田・台宿・井野・鷲谷が関宿藩領に挙がっています。ただし市域全体が一様だったわけではなく、関宿藩領のほかに天領・田安領・旗本領・社寺領が入り交じっていました。

その関宿藩主久世広周は、幕末の政局のまんなかにいた人です。嘉永四年(1851年)に老中となり、安政の大獄では井伊直弼の強圧的な処罰方針に、閣老のなかでただ一人反対して失脚しました。

井伊が桜田門外で倒れたのち、広周は老中安藤信正の推挙で復帰します。一万石を加増され、安藤とともに公武合体を進めました。ところが文久二年(1862年)一月十五日の坂下門外の変で安藤が襲われると、広周も連座します。同年六月に老中を免ぜられ、八月には一万石を召し上げられたうえ、十歳の嫡男広文へ家督を譲らされました。十一月には永蟄居となります。そして元治元年(1864年)、失意のうちに四十六歳で世を去りました。

藩もまた割れました。佐幕派と勤王派の主導権争いは「久世騒動」と呼ばれます。慶応四年(1868年)四月、佐幕派四十名ほどが関宿城を脱して江戸深川の藩邸に集まり徹底抗戦を唱え、閏四月には勤王派が新政府軍とともに藩邸へ突入して乱闘となりました。五月十五日、藩士が組んだ萬字隊は彰義隊に加わって上野で戦い、隊を率いた二人が討死しています。十二月、広文は五千石を減らされ、隠居させられました。

守谷城跡は低い湿地へ突き出した台地の上にある土の城で、大堀切・曲輪・土塁がよく残ります。昭和四十八年に町の史跡に指定され、平成十六年に守谷城址公園として開かれました。近年は雑木や笹藪の伐採が進み、堀切や曲輪の形が見やすくなっています。なお、天狗党の乱や水戸浪士と守谷との関わりについては、確認できる資料を見つけられませんでした。

美濃守護・土岐氏の末裔—菅沼定政から土岐定政へ

守谷藩を開いた菅沼定政は、室町時代に美濃の守護を務めた名門・土岐氏の血を引く人です。土岐氏は戦国時代に家臣の斎藤道三に国を奪われて没落し、明智光秀もこの土岐一族の流れを名のったことで知られます。定政の父は道三との戦いで討たれ、幼い定政は三河の菅沼家に引き取られて育ちました。成長して家康に仕え、のちに家康の許しを得て、先祖の名である土岐の姓に戻ります。滅びた守護の家の名が、徳川の家臣のもとでよみがえったのです。

将門伝説の城

守谷の城は、もとは下総の相馬氏の城でした。相馬氏は平将門の子孫を名のる一族で、守谷には、平安時代に関東で反乱を起こした将門がここに王城を構えたという伝説が残っています。相馬氏は戦国時代に小田原の北条氏に従い、北条氏とともに領地を失いました。その跡に入ったのが、美濃の守護の末裔である定政だったわけです。

守谷を出た土岐家の幕末—上野沼田藩

定政の子・定義は守谷から摂津の高槻へ移り、土岐家はその後いくつかの国替えを経て、寛保二年(1742)に上野の沼田三万五千石に入り、ここで明治を迎えました。真田家がかつて治めた沼田の城下です。幕末の沼田藩は、慶応四年(1868)の戊辰戦争で新政府に従い、上野と越後の境の三国峠で会津藩の軍勢と戦っています。土岐の名をよみがえらせた家は、沼田で徳川の時代の終わりを見届けたのでした。

土岐定義の水戸城守備と、守谷の地名

定義という人

土岐定義は天正8年(1580)生まれで、定政の次男です。長兄が早世していたため慶長2年(1597)に家を継ぎました。関ヶ原の戦いでは秀忠軍に従って上田城攻めに加わり、慶長7年(1602)に佐竹氏が秋田へ移されたときは水戸城を守り、佐竹旧臣の反乱を鎮めたとされます。正室は信濃高島藩主・諏訪頼水の娘です。

守谷に残った名残り

定義は慶長3年(1598)に八坂神社を今の場所へ移したと伝わります。守谷には土岐氏時代の地名として、重臣25人の屋敷にちなむ「二十五軒」、家老・井上九左衛門の屋敷にちなむ「九左衛門屋敷」があったとされます。

高槻、そして上山・沼田へ

定義は元和3年(1617)に摂津高槻へ移り、元和5年に40歳で没しました。子の頼行は12歳で家を継ぎましたが、幼少を理由に相馬郡内1万石へ戻され、寛永5年(1628)に出羽上山へ移ります。このため守谷藩の廃藩年は辞典によって1617年説と1628年説に分かれます。この家はのちに上野沼田藩主となり、老中や大坂城代を出しました。

考察:幼い当主が「出戻った」藩

一度高槻へ出た家が、当主が幼いという理由で守谷へ戻される。守谷は土岐家にとって、出発点であると同時に立て直しの場所でもありました。そう読むと、守谷藩の終わりの年が二つあることにも意味が見えてきます。

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