【藩名】
埴科藩(松代藩支藩)
【説明】
松代藩主「真田信之」の次男の「真田信政」が、慶長17年(1622)年に1万7千石を分与さ埴科藩が立藩しました。寛永16年(1639年)6月、信政が上野国沼田藩へ移封されると、信政の所領は弟の「真田信重」が継ぎました。しかし信重は正保4年(1647年)2月、嗣子なくして松代城にて死去し、埴科の所領は父「信之」に返上され埴科藩は廃藩となりました。
本家・松代藩との関係
埴科(はにしな)藩は、信濃の松代藩(川中島藩)の支藩で、真田家の分家が一万七千石を領しました。
ただし、この藩は幕末まで続いた藩ではありません。藩主・真田信重に世継ぎがなかったため、本藩・松代藩に吸収されて廃藩となりました。幕末の松代藩の動きは本家のページをご覧ください。
【廃藩のあと——佐久間象山を出し、その葬儀に一人も出さなかった藩】
埴科藩は元和八年(1622年)、真田信之の次男・信政が松代藩十万石から一万七千石を内分分知されて立ちました。城も陣屋も持たない、藩領のなかの分知藩です。正保四年(1647年)、信重が嗣子なく世を去って父・信之に返上され、二十五年で廃藩となりました。以後この地は松代藩・真田家十万石の城下そのものです。
その松代藩が、幕末に一人の巨人を世に出します。佐久間象山です。
象山を登用したのは真田幸貫でした。老中首座・松平定信の子として生まれ、真田家の養嗣子となった人です。天保の改革では水野忠邦によって外様席から譜代席に移され、老中に抜擢されて天保十三年(1842年)以降は海防掛を務めました。その幸貫が洋学の人材を集めたのです。象山は嘉永二年(1849年)、松代で日本初の電信実験を成功させています。
そして元治元年(1864年)七月十一日の午前五時ごろ、京都の木屋町三条下ルで象山は斬られました。中山邸へ開港論の書を持参した帰り道、馬上を浪士二人に襲われて落命。五十四歳でした。遺体は近くの理髪店に運ばれ、夜になって近臣二人に守られて妙心寺に葬られています。
ここが痛切なところです。松代藩は幕府への配慮から「會葬者一人モ出サズ」という対応をとりました。藩を代表する頭脳が斬られたのに、葬儀に誰も出さなかったのです。世論はのちに反転し、明治二十二年に正四位が追贈され、明治二十五年には象山碑が建てられました。藩が知らんぷりをしてから二十八年後のことです。
戊辰戦争では、慶応四年三月に飯山藩の要請を受けて出兵しました(飯山戦争)。安田渡船場の砲戦では「大砲雷フル」と記録され敵を退けましたが、二番小銃隊の小沼長兵衛ら二名が戦死しています。その後は越後長岡から会津若松城の落城まで、十月末まで転戦しました。
松代城跡は国の史跡です。真田邸と文武学校も国史跡で、佐久間象山宅跡も同じく国史跡。象山記念館は没後百年を機に有志が奉賛会を作り、昭和四十年(1965年)に開館しました。
【場所・アクセス・地図】

