安藤雅次郎【新選組隊士 諸士取調役兼監察 幕末】

安藤雅次郎
職名 諸士取調役兼監察
出身 上総
終焉場所 江戸
終焉方法 病没

慶応元年に入隊し慶応二年の三条制札事件に出動。
鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還するが程なく病死しました。

新選組隊士全456名情報

新選組隊士の一覧を見る

目次

六つの名前で史料に残る隊士

名前と役職までしかたどれないと上に書きましたが、じつはこの人の場合、その「名前」こそが手がかりになります。安藤雅次郎は、史料ごとに違う名で現れる隊士です。雅次郎、勇次郎、雄次郎、勇太郎、勇二郎、勇三郎、そして主計—同じ一人を指しているとみられる表記が、これだけ伝わっています。名の揺れを追いかけると、この隊士の足取りがぽつぽつと浮かびます。

大砲組の平士から、伍長へ

いちばん早く確認できるのは元治元年十一月の『行軍録』で、「雅次郎」の名で大砲組の平士として載っています。池田屋事件と禁門の変のあと、隊が京と大坂で人を集めていた時期にあたりますので、その募集に応じて入った一人とみられます。翌慶応元年五月の山崎烝の名簿では伍長にあがり、隊士百四十八人のうち四十二番目に名が記されました。さらに慶応三年六月、新選組が幕臣に取り立てられたときには諸士調役となり、このとき「主計勇次郎」と名乗っています。同じ日に見廻組並へ列した顔ぶれには茨木司や吉村貫一郎がいました。

三条制札事件の褒賞名簿に、名があります

慶応二年九月十二日の夜、三条大橋のたもとに立てられた高札を引き抜こうとする土佐藩士を、新選組が三手に分かれて待ち伏せた一件が三条制札事件です。原田左之助の手、新井忠雄の手、大石鍬次郎の手が橋のまわりの町家や酒屋にひそみ、乞食に化けた斥候まで置いたうえでの捕物でした。十二月に会津藩から褒賞金が出たときの名簿に、「安藤勇三郎」として十五両を受けた記録が残っています。二十両が原田左之助・新井忠雄ら四人、十五両が安藤ら五人で、同じ十五両のなかには伊木八郎の名も見えます。

ただしこの褒賞名簿は西村兼文『新撰組始末記』にしか出てこないもので、池田屋事件の褒賞のように会津藩の公式記録で裏が取れているわけではありません。金額を合計しても約束の二百両に足りない、いくつかの組の組長名が抜けている、といった疑問も指摘されていますので、名が載っていることそのものは重い手がかりですが、名簿の細部まで確かとは言いきれません。また永倉新八の『浪士文久報国記事』は、この事件の人の配し方を褒賞名簿とはまるで違う形で書き残していて、同じ夜の出来事の記録すら一致していません。

江戸で、戦ではなく病で亡くなりました

慶応四年正月、鳥羽・伏見に敗れた隊は軍艦で江戸へ引き揚げます。このときの負傷者の扱いについては幕府の公文書が残っていて、「新撰組隊長近藤勇以下三十名御手当之儀書上」「新撰組手負之者医学所江罷越之儀申上候書付」という書付が国立公文書館の江戸城多聞櫓文書に収められており、手負いの隊士が医学所で松本良順の手当を受けたことが分かります。安藤はその江戸で、戦場ではなく病で亡くなりました。『元新撰組連名』が正月の病死と記しています。同じ上総の出とされる池田七三郎のように昭和まで生きた隊士もいれば、戦を生き延びて江戸にたどりついたところで力尽きた者もいた、ということになります。

慶応二年の三条制札事件については、三条制札事件とは—三条大橋の高札をめぐる新選組と土佐藩士の斬り合いにまとめています。

安藤雅次郎の生きた時代—上総の小藩と請西藩

上総の国 安藤雅次郎の故郷・上総は、小さな藩や旗本の領地が入り組んだ土地でした。その中の一つ、請西藩(一万石)の藩主・林忠崇は、戊辰戦争で藩主みずから藩を脱け、旧幕府軍の遊撃隊とともに箱根や東北で新政府軍と戦いました。大名が脱藩するという、ほかに例のない出来事です。

最後の大名 林忠崇は降伏したのちに許され、昭和十六年(1941)まで生きて、「最後の大名」と呼ばれました。上総出身の安藤は鳥羽伏見の戦いのあと江戸へ帰り、ほどなく病で亡くなっていますが、その故郷は、のちにこうした激しい抵抗の舞台にもなったのです。

  • URLをコピーしました!
目次