函館市史が記す桔梗野台場の攻防
三稜郭という名そのものの記録は乏しいのですが、この一帯に台場があったこと自体は公の記録に残っています。函館市が公開する『函館市史』通説編二によりますと、新政府軍は明治二年五月十一日の午前三時を期して五稜郭と箱館への総攻撃を仕掛け、三つの方面から攻め寄せました。このうち中央口を桔梗野台場へ向かったのは長門、松前、津軽の藩兵で、突貫攻撃によって昼前にようやくこれを落とし、亀田へ出て海岸道を進んだ隊と合流します。比遅里神社の一帯が三稜郭の候補地として挙がるのは、この桔梗野台場の跡と重ねて考えられているためです。
社殿が現在地へ移ったのは明治三十四年
ただし、境内の形をそのまま台場の形と見なすには注意が要ります。北海道神社庁の由緒によりますと、比遅里神社は安政五年に移住者が聖徳太子を祀る社殿として再建し、明治九年に村社へ列格しましたが、社殿が現在地へ移されたのは明治三十四年で、もとの社地が鉄道の敷地になったためでした。つまり箱館戦争のさなか、この三角形の台地に社殿は建っておらず、神社は後からこの地形の上へ移ってきたことになります。地形そのものと、そこに残る高まりの年代をどう結びつけるかが、比定の焦点となります。
国の史跡となった四稜郭との違い
同じ旧幕府軍の防御施設でも、四稜郭は昭和九年一月二十二日に国の史跡へ指定され、東西およそ百メートル、南北およそ七十メートルという規模や、高さ三メートルほどの土塁、四隅の砲座まで明らかになっています。これに対して三稜郭は、発掘による裏づけも文化財としての指定もなく、古絵図の読み取りと地元の郷土研究に支えられた比定にとどまり、諸説ありという段階を出ていません。
三稜郭跡について
榎本脱走艦隊(蝦夷共和国)では新政府軍の襲撃に備えて各地で砲台や陣屋の建設を急ぎました。明治二年(1869年)、旧幕府軍は「弁天台場」の改修をはじめ、千代ヶ岡台場、権現台場、四稜郭などの防衛施設を建設しました。

そんな中、「五稜郭」「四稜郭」の他に「三稜郭」の存在が浮上したのです。古地図には三稜郭らしき陣屋が記載されていて、これがどこにあったのかが争点となりました。現在では「北海道函館市桔梗」にある「比遅里神社」がその場所であろうという研究結果が出ています。

確かにそれらしき土塁が残る他、神社そのものが三角形の形をしています。あくまでも仮説だがこの場所が三稜郭の候補地として挙げられています。
五稜郭と西洋式の「稜堡」
星形の理由 五稜郭や四稜郭、三稜郭のように、角が外に向かって突き出した形の城を「稜堡式」の城といいます。ヨーロッパで大砲が使われるようになってから発達した形で、突き出した角(稜堡)から敵を横から撃てるため、城壁の下に死角ができにくいという利点がありました。
日本の西洋式城郭 日本でこの形の城を築いたのは、幕末になってからのことです。箱館の五稜郭のほか、信州の龍岡城(龍岡五稜郭)もこの形で築かれました。箱館戦争のとき、旧幕府軍は五稜郭を守るために、その周りに四稜郭や三稜郭などの小さな砦を急いで築いています。
「三稜郭」という名は、どこから出てきたのか
調べていていちばん知りたくなるのは、この名前の出所です。
たどっていくと、二つの筋に行き当たります。ひとつは西ケ谷恭弘『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』の記述で、そこに書かれているのは断定ではなく「図絵に見る限り三稜郭であったかと思われる」という推定の言い方です。もうひとつは函館北高校郷土研究部が重ねた地元の研究でした。
つまり三稜郭という呼び名は、同時代の史料に出てくる名ではありません。古絵図に三角形の囲みが描かれていることと、桔梗野に台場があったという記録を突き合わせて、後世に付けられた呼び名です。この順番を押さえておかないと、「三稜郭という郭が確かにあった」という前提から話が始まってしまいます。
指定も発掘もない、という事実
念のため確かめたところ、三稜郭は国・北海道・函館市のいずれの指定文化財一覧にも載っていません。発掘調査の報告も見当たりませんでした。築造の主体、つまり誰がいつ築いたのかを述べた公的な資料も見つかりません。
四稜郭が昭和九年に国の史跡となり、規模も土塁の高さも砲座の位置まで分かっているのと比べると、同じ箱館戦争の施設でありながら置かれている段階がまったく違います。一方は調べ尽くされた史跡、一方は名前の出所から確かめ直さなければならない比定地です。
それでも訪ねる値打ちがある理由
では空振りなのかというと、そうでもありません。比遅里神社の一帯が三角形の台地になっているのは地形としてそのとおりで、桔梗野に台場があったこと自体は『函館市史』が記しています。明治二年五月十一日、長門・松前・津軽の藩兵が中央口からここへ突貫し、昼前にようやく落としました。
五稜郭の北東に四稜郭、その手前に桔梗野。この三点を地図の上で結ぶと、旧幕府軍が五稜郭の北側をどう固めようとしたかが見えてきます。三稜郭が実在したかどうかは未確定ですが、ここが戦場だったことは未確定ではありません。
参考資料
桔梗野台場の攻防は函館市が公開する『函館市史』通説編二、神社の遷座と由緒は北海道神社庁、四稜郭の指定と規模は文化庁および函館市の公開資料によります。三稜郭という名の出所については西ケ谷恭弘『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』の推定記述と函館北高校郷土研究部の研究が知られていますが、発掘による裏づけと文化財指定はいずれも確認できていません。
場所・アクセス・地図
北海道函館市

