庚申丸【長州藩 砲艦 幕末軍艦】

庚申丸
藩名 長州藩
藩主 毛利慶親
船種 砲艦
機関 帆走
備砲 6門
材質 木製
馬力 0馬力
写真

■ 詳細
方延元年5月、長州藩で建造されました。丙辰丸とほぼ同型艦です。四ヶ国連合軍による長州征伐で大破したがその後大修理を受け、慶応2年(1866年)6月に小倉口に出撃し坂本龍馬の亀山社中の指揮下で乙丑丸と行を共にしました。後の戊辰戦争でも、鳥羽・伏見の戦い前に長州藩兵を輸送するなどの活動を行いました。

目次

所属した長州藩と、山県有朋

この軍艦・庚申丸を運用したのも、長州藩(毛利家)です。長州の軍事を近代へと導いた人物に、山県有朋がいます。

山県は、高杉晋作が身分を問わず募った奇兵隊で頭角を現し、戊辰戦争を戦い抜きました。維新後は徴兵制を柱とする近代的な陸軍をつくり上げ、「日本陸軍の父」と呼ばれます。のちに内閣総理大臣も務めました。庚申丸は、その山県を生んだ長州藩の一隻です。

幕末軍艦一覧リスト

買った船ではなく、萩で造った船です

この船は買ったものではありません。萩の小畑浦にあった恵美須ヶ鼻造船所で、長州藩が自前で造った軍艦です。万延元年のうちに出来上がり、その年の干支から庚申丸と名づけられました。建造の責任者は山田亦介。長崎の海軍伝習所へ技術者を十三人送ってオランダ人から学ばせ、持ち帰った知識で造っています。大きさは資料によって幅がありますが、萩市は全長四十四メートルとしています。

ロシア式とオランダ式が、一つの造船所に並びました

恵美須ヶ鼻造船所が造った船は二隻だけです。一隻目が安政三年の丙辰丸、二隻目がこの庚申丸でした。丙辰丸は伊豆の戸田村でロシア人の指導のもとに造られた船の系統を引くロシア式、庚申丸はオランダ式です。造船所の建造を藩に上申したのは桂小五郎、のちの木戸孝允でした。この造船所が世界遺産に選ばれた理由の一つが、ロシアとオランダの造船技術を一つの施設で組み合わせた唯一の例だという点にあります。国の史跡になったのは平成二十五年十月十七日、世界遺産の登録は平成二十七年です。

アメリカの商船を撃ち、アメリカの軍艦に沈められました

文久三年五月十一日の午前二時、庚申丸は癸亥丸とともに下関を出て、九州の田野浦の沖で潮待ちをしていたアメリカの商船ペンブロークを砲撃しました。十二発撃って三発当たったといいます。報復は三週間後に来ました。六月一日、アメリカの軍艦ワイオミングが下関へ入り、港にいた庚申丸、癸亥丸、壬戌丸を攻めます。この攻撃で庚申丸と壬戌丸は沈みました。ただし庚申丸はそのあと引き揚げられて直され、ふたたび使われています。萩市の説明は沈められたところまでで再就役に触れていませんので、そこは資料によって分かれます。

亀山社中の指揮下に入っています

慶応二年六月十七日、乙丑丸とともに門司を襲い、七月三日には丙寅丸、丙辰丸と大里の沖から幕府の船を攻めました。このとき庚申丸は坂本龍馬の亀山社中の指揮下に入り、乙丑丸と行動をともにしたと伝えられます。乙丑丸は龍馬が乗っていた船です。攘夷でアメリカの商船を撃ち、その報復で沈められ、引き揚げられて三年後に幕府と戦う。この一隻の来歴が、長州の幕末そのものです。戊辰戦争でも、鳥羽伏見の戦いの前に長州藩兵を運んでいます。廃船になった時期と解体の記録は、見つかりませんでした。

丙辰丸と「ほぼ同型」とは言えません

庚申丸を丙辰丸とほぼ同じ型の船と書く記述を見かけますが、大きさがかなり違います。丙辰丸は全長二十五メートル、四十七トンの二本マストのスクーナーで、庚申丸は萩市の説明で全長四十四メートル。倍近い差があります。同じ造船所で続けて造られた二隻ではありますが、ロシア式とオランダ式という技術の系統も違いますので、同型とするのは無理があります。

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