癸亥丸【長州藩 ブリッグ級 幕末軍艦】

癸亥丸
藩名 長州藩
藩主 毛利慶親
船種 ブリッグ級
機関 帆走
備砲 10門
材質 木製
馬力 0馬力
写真 無
癸亥丸
癸亥丸の姿(パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

原名ランリック。イギリスで建造され、1863年1月英国より購入しました。文久三年(1863年)六月一日、下関でアメリカ軍艦ワイオミングの反撃を受けて大破しました。その後、廃艦扱いとされていたが、後に大改修を受け、慶応二年(1866年)六月に小倉口に出撃。丙寅丸、丙辰丸らと共に小倉藩の田野浦を砲撃しました。

目次

所属した長州藩と、禁門の変

この軍艦・癸亥丸を運用したのも、長州藩(毛利家)です。長州藩は幕末、一度は「朝敵」の汚名を着せられ、どん底に突き落とされました。

元治元年(1864)、京都から追われた長州は、勢力の回復をめざして御所へ兵を進めますが、会津・薩摩らに撃退されます(禁門の変)。長州は朝敵とされ、幕府の長州征伐を招きました。しかし藩はここから高杉晋作らの手で息を吹き返し、討幕へと転じていきます。癸亥丸は、その苦難と再起の長州の一隻です。

攘夷の口火を切った二隻のうちの一隻です

文久三年五月十一日の午前二時、癸亥丸は庚申丸とともに下関を出て、九州の田野浦の沖で潮待ちをしていたアメリカの商船ペンブローク号を撃ちました。十二発撃って三発当たったといいます。長州藩の攘夷の、最初の一発でした。

報復で、二度やられています

三週間後の六月一日、アメリカの軍艦ワイオミングが下関へ入り、港にいた癸亥丸、庚申丸、壬戌丸を攻めました。この攻撃で庚申丸と壬戌丸が沈みます。翌元治元年には四か国連合の艦隊が下関を攻め、癸亥丸はここで大破しました。いったんは廃艦の扱いになっています。

それでも直して、幕府と戦いました

ところがこの船は、大きな修理を受けてよみがえります。慶応二年六月、小倉口へ出撃し、丙寅丸、丙辰丸とともに小倉藩の田野浦を砲撃しました。外国船を撃って外国船に沈められ、直されて幕府と戦う。庚申丸とまったく同じ道をたどった船です。

原名はランリック

イギリスで造られた船で、原名はランリック。長州藩が買ったのは千八百六十三年の一月ですから、買ってから四か月ほどでペンブローク号を撃っていることになります。攘夷を実行するために買い、実行し、報復で失い、また直して幕府と戦う。この藩の船の使い方が、そのまま出ています。

攘夷の一か月を、日付で並べてみます

癸亥丸が関わった文久三年五月から六月の下関は、ひと月のあいだに撃って撃たれてを繰り返しています。山口県文書館の解説シートが居留地の新聞をもとに整理した日付を並べてみます。

五月十日、アメリカ商船ペンブローク号を砲撃。砲台と庚申丸・癸亥丸によるものでした。五月二十三日、フランスの通報艦キャンシャン号を砲撃し、書記官が負傷、水兵四名が死亡。五月二十六日、オランダ艦メデューサ号を砲撃、癸亥丸が砲戦を交え、同艦は十七発を受けて死者四名。ここまでが長州の側から撃った三度です。

返されたのが六月一日、アメリカ軍艦ワイオミングの反撃で、壬戌丸と庚申丸が沈み、癸亥丸は大破しました。続いて六月五日、フランス艦セミラミス号とタンクレード号が来攻し、前田砲台を沈黙させて上陸、砲を壊して民家を焼いています。

西暦の換算が、資料で四日ずれています

この日付を西暦に直すところで、資料が食い違います。山口県文書館は五月十日を1863年6月25日、六月一日を七月十六日、六月五日を七月二十日とします。一方Wikipediaの「下関戦争」は六月一日を七月二十日、六月五日を七月二十四日としており、四日ずれています。

和暦の日数から逆算すると山口県文書館の換算が整合しますし、ワイオミングの戦闘は国際的にも1863年7月16日、フランス軍の前田上陸は七月二十日として知られています。当サイトでは山口県文書館の換算を採ります。「七月にフランス艦隊の報復があった」という言い方も、六月五日=七月二十日の同じ出来事を指しているので、別の事件ではありません。

沈んだのは二隻、大破が一隻です

ワイオミングにやられた三隻のうち、沈んだのは壬戌丸と庚申丸で、癸亥丸は大破でした。沈まなかったからこそ、この船は復旧して再び動きます。

アメリカ側の損害については三通りの記述があります。山口県文書館は即死四名・負傷七名のうち一名死亡、Wikipediaの「下関戦争」は死者六名・負傷四名、同じWikipediaの「庚申丸」の項は一発命中で戦死三名・負傷四名。撃った側の記録も撃たれた側の記録も、数え方が揃いませんでした。

癸亥丸の原名はランリック号で、これは山口県文書館も「英名ランリック号」と記しています。1843年にイギリスのリバプール近くマージーで造られた二檣ブリッグで、二百八十三トン、武装は十八斤砲二門と九斤砲八門の合わせて十門。ただし蒸気船とする文献もあり、帆船か蒸気船かで資料が分かれます。最終的にどう処分されたのかはわかっていません。

癸亥丸を船の型と持ち主から読む

癸亥丸は蒸気機関を持たない帆船で、風の力だけで海を渡りました。(帆船と蒸気船の違い)船種は「ブリッグ級」。2本のマストとも横帆の「ブリッグ型」の帆装の船です(帆の張り方・軍艦の格)。

当サイトで紹介している長州藩の船は、この癸亥丸を含めて11隻あり、そのうち帆船は4隻です。同じ長州藩の船には、第二丙寅(輸送船)、第二丁卯(バーク船)、第一丁卯(スクーナー級)、丁卯(砲艦)、丙辰丸(砲艦)、丙寅丸(バーク船)、壬戌丸(輸送船)、庚申丸(砲艦)などがあります。

持ち主の長州藩の幕末をふり返ると、倒幕の中心。戊辰戦争では新政府軍の主力。癸亥丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。

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