丙辰丸【長州藩 砲艦 幕末軍艦】

丙辰丸
藩名 長州藩
藩主 毛利慶親
船種 砲艦
機関 帆走
備砲 2門
材質 木製
馬力 0馬力
写真 絵図

■ 詳細
1856年12月、長州藩の萩小畑で建造された日本初の洋式木造帆走船で庚申丸とほぼ同型艦です。武装としては船首両舷に大砲1門ずつが据えられていました。慶応2年(1866年)の四境戦争(長州征伐)では小倉口に出撃し癸亥丸、丙寅丸らと共に小倉藩の田野浦を砲撃しました。

その後も三田尻と大坂間の輸送や戊辰戦争にも従軍しました。

目次

所属した長州藩と、「丙辰丸の盟約」

この軍艦・丙辰丸は、長州藩(毛利家)が江戸で建造した初期の洋式軍艦です。じつはこの船は、幕末史のある密約の舞台になりました。

万延元年(1860)、江戸湾に停泊する丙辰丸の船上で、長州の桂小五郎と水戸藩の志士・西丸帯刀が会談し、幕政の改革に向けて手を結ぶ「成破(せいは)の盟約」を交わしたと伝えられます。桜田門外の変で井伊直弼が斃れた直後の、尊皇の志士たちの連携を示す一幕でした。丙辰丸は、そんな密議を刻んだ一隻です。

丙辰丸をもっと深く——長州が自分の手で造った最初の洋式船

伊豆の戸田村から、萩へ運ばれた技術

安政三年二月(1856年)、長州藩主・毛利敬親は洋式船の建造を正式に命じました。同年十二月に進水したのが丙辰丸です。建造地は萩の小畑浦にあった恵美須ヶ鼻造船所。長州藩が最初に持った洋式船でした。

手本になったのは、幕府が伊豆の戸田村で造った「君沢形」の帆船です。安政の大地震による津波でロシア軍艦ディアナ号が失われたあと、その乗員の指導を受けて日本の船大工が造り上げた西洋式帆船でした。

長州は船大工の尾崎小右衛門を戸田村と江戸へ送って学ばせ、さらに君沢形の建造に携わった高崎伝蔵を招いています。技術は図面を買えば手に入るものではなく、人ごと動かして持ってくるものでした。

建造 日本・萩の恵美須ヶ鼻造船所(1856年進水)
トン数 47トン
全長 約25メートル
形式 木造二本マストのスクーナー
推進 帆走のみ(機関なし)
備砲 船首両舷に1門ずつ、計2門

蒸気機関はありません。長州が最初に手にした「洋式船」は、四十七トンの帆船でした。開陽丸の五十分の一です。ここから始まって、十年後には幕府艦と撃ち合うことになります。

丙辰丸の盟約

万延元年(1860年)、松島剛蔵を艦長として丙辰丸は江戸へ回航されました。そしてその船上で、長州藩士と水戸藩藩士との間に密約が交わされます。「丙辰丸の盟約」、あるいは「成破の盟約」と呼ばれるものです。

長州が「破壊(破)」を、水戸が「改革(成)」を担うという分担だったとされます。ただし参加者や条文の詳細は資料によって記述が分かれており、確定していない(諸説あり)。桜田門外の変が起きた、まさにその年のことです。

なぜ船の上だったのか。陸で他藩の者と密談すれば人目につく。船なら誰も入ってこありません。幕末に船が果たした役割は、人と物を運ぶことだけではありませんでした。動く密室でもあったのです。

小倉口

慶応二年六月、第二次長州征討の小倉口で、丙辰丸は田ノ浦を襲撃しました。七月には大里沖から幕府艦を攻撃しています。

四十七トンの帆船が、十年後に幕府の蒸気軍艦と撃ち合っていました。長州の海軍は、この小さな一隻から始まっています。乙丑丸のような蒸気船を手に入れるのは、まだ先のことでした。

造船所跡は、いま世界遺産

明治三年、丙辰丸は萩の商人に払い下げられました。船そのものは残っていません。

ただし、この船が造られた恵美須ヶ鼻造船所の跡は、いま「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として世界遺産に登録されています。船は消えたが、船を造った場所のほうが残りました。

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