峰山藩の歩み
初代藩主「京極高通」は朽木宣綱の次男として生まれたが、母方の叔父である「京極高知」の婿養子となりました。丹後国主であった高知は自らの遺領を実子2人と高通に3分割して与え、高通には峰山地方の一万石を相続させました。これにより従来「徳川秀忠」から拝領していた三千石と合わせて一万三千石の大名となり丹後峰山に陣屋を構えて立藩しました。
宗家である宮津藩の京極家はほどなく改易され、田辺藩(舞鶴藩)の京極家も但馬豊岡へ転封となったため、丹後には峰山藩だけが残りました。第6代藩主「高久」は若年寄となり、小説「鬼平犯科帳」において、鬼平こと「長谷川平蔵」の良き理解者として登場する人物として有名です。幕末の藩主である第11代藩主「京極高富」は、戊辰戦争の際に若年寄であった責任を追及されたが、養子である「京極高陳」がいち早く朝廷に謝罪をした事から許されました。
丹後ちりめんの里・峰山藩
峰山藩は、丹後国(現在の京都府京丹後市峰山)に置かれた一万三千石の藩で、藩主は名門・京極家、陣屋を構える小藩でした。この地は絹織物「丹後ちりめん」の発祥の地として知られ、織物の産地を治める藩でもありました。
いち早い恭順
戊辰戦争において峰山藩は、いち早く新政府に恭順し、その姿勢を認められて家名を保ちました。小藩ながら時流を的確に読み、無用な戦火を避けて時代の転換を乗り切ったのです。丹後の織物文化を今に伝える土地柄とともに、静かに幕末を過ごした藩です。
丹後ちりめんを育てた藩です
享保五年、絹屋佐平治が持ち帰った技法
京都府公式によれば、享保五年(1720年)、丹後峰山町の絹屋佐平治(のちの森田治郎兵衛)が京都西陣の機屋に奉公して織物の技法や糸口の仕掛け、シボの出し方を研究し、その秘法を丹後へ持ち帰ってちりめんの製織を始めました。そして「峰山藩の積極的な保護政策などもあって」丹後一帯が一大産地になった、と府は書いています。
京丹後市は「絹屋佐平治関係資料」を平成三十年(2018年)四月六日に市の有形文化財(歴史資料)に指定しています。藩の特産が、藩の消えたあとも土地の産業として残った例です。
最後の藩主は高陳、爵位を受けたのは高富
十一代京極高富は嘉永二年に家督を継ぎ、若年寄を務めました。Wikipediaによれば、1866年の第二次長州征討では四国方面軍を率いて松山に陣を敷いています。慶応四年五月には佐幕派とみなされて謹慎を命じられましたが、養嗣子が新政府に恭順を示して兵も出していたことが考慮され、同月十四日に謹慎を解かれました。
その直後の五月二十八日、高富は病を理由に隠居し、養子の高陳が十二代藩主となります。上の段の高陳が、廃藩置県までの藩主です。ところが高陳は明治八年(1875年)九月三十日に隠居し、家督は高富に戻りました。そのため明治十七年の華族令で子爵を受けたのは高富です。日本人名大辞典も高富の項に「戊辰戦争では西園寺公望に従い隠居。子爵」と記しています。高富は明治二十二年(1889年)二月九日に亡くなりました。
陣屋跡と墓所
京都府教育委員会によれば、峰山陣屋跡は京丹後市峰山町吉原馬坊にあり、中心部は御殿のあった大きな曲輪で、南西部に虎口の石垣が残ります。東側の細長い曲輪は絵図から馬場と分かっています。
京丹後市の指定文化財では、「峰山陣屋跡 エノキ」が平成二十年(2008年)七月八日に天然記念物、「峯山藩主京極家墓所」が令和二年(2020年)三月二十七日に史跡となりました。歴代藩主の肖像画も昭和六十年に市の有形文化財です。なお江戸の霊巖寺(東京都江東区)にも峰山藩主京極家の墓があり、こちらは昭和六十三年三月二十四日に区の史跡として登録されています。
藩校は敬業堂です。廃藩後は峰山県、豊岡県(→豊岡藩)を経て、明治九年に京都府へ入りました。上の段にある宗家の宮津藩が早くに改易されたあとも、峰山の京極家は幕末まで残りました。

