篠山藩の歩み
寛延元年(1748年)八月、青山忠朝が丹波亀山藩から五万石で篠山へ移封となりました。以降、江戸期を通じて青山氏による篠山統治時代が幕末まで続きました。譜代大名である青山氏は文久三年(1863年)八月、二条城守備を務め、元治元年(1864年)五月には従四位下に昇叙され、七月の「禁門の変」にも出兵しています。

最後の藩主「青山忠敏」の時代、慶応四年(1868年)に勃発した「戊辰戦争」では藩内が佐幕派、新政府派に分かれて対立しました。しかし、「西園寺公望」率いる新政府軍が篠山に侵攻すると新政府に恭順しました。
なお、遠江国にあった飛地である藩領は「徳川家達」の領土として組み込まれたため、新たに丹波・但馬国内で一万石を与えられています。明治四年(1871年)七月十四日の「廃藩置県」により篠山藩は廃藩となり、その後、篠山藩は篠山県を経て同年十一月二日に豊岡県に編入され、更に明治九年(1876年)八月二十一日には兵庫県に編入されました。なお、現存建物として、藩庁・篠山城の城門が市内金照寺山門として移築されています。
場所・アクセス・地図
丹波の要・篠山藩
篠山藩は、丹波国多紀郡(現在の兵庫県丹波篠山市)に置かれた六万石の藩で、幕府が天下普請で築いた堅固な篠山城を居城とし、藩主は譜代の青山家でした。京・大坂と山陰を結ぶ街道を押さえる、丹波の要地を治めた藩です。
藩論の分裂から恭順へ
幕末の篠山藩は、旧幕府を支持する佐幕派と、天皇を奉じる尊皇派とに藩論が割れました。しかし戊辰戦争で新政府軍が城下に迫ると、藩は恭順を選び、家名を保ちます。京都に近い譜代大名として、進軍してくる新政府軍を前に現実的な判断を下したのです。
大書院は昭和十九年に焼け、平成に再建されました
篠山城跡は国の史跡です
丹波篠山市公式によれば、篠山城跡は昭和三十一年(1956年)十二月二十八日に国の史跡に指定されました。面積は約十九ヘクタールで、天守台・本丸・二の丸・三の丸・内堀・外堀・東馬出・南馬出が残ります。慶長十四年(1609年)に徳川家康の命で築かれた城です。
城の大書院は築城と同時に建てられましたが、1944年一月六日の夜に焼失しました。再建されたのは2000年三月で、同年四月から公開されています。床面積は約739平方メートル、棟の高さは12.88メートルで、上段の間には幅三間半の大床と付書院が備わります。市公式は、京都二条城の二の丸御殿に匹敵する格式と説明しています。
藩校振徳堂の創設年は二説あります
藩校振徳堂は、藩主青山忠高の命で篠山城の外濠の西南隅に開かれました。創設年は、精選版日本国語大辞典が明和三年(1766年)、丹波篠山市の観光公式が1768年としています。士分以外の子どもも受け入れ、生徒は約三百人で授業料は無料でした。天明年間には近くに養正斎・成始斎・挙桂楼が増築され、維新後は皇学・洋学・医学が加えられて、廃藩とともに廃校となりました。
降伏のときの藩主と、子爵になった弟
最後の藩主青山忠敏は天保五年(1834年)二月二十一日に生まれ、文久二年に家督を継ぎました。世界大百科事典は、1868年一月に山陰道鎮撫使の西園寺公望一行へ降伏したと記しています。Wikipediaの「篠山藩」は、このとき忠敏が江戸詰めで不在であり、筆頭家老らが連署して恭順を誓ったとしています。
忠敏は明治六年(1873年)三月二十一日に四十歳で亡くなり、華族令より前なので授爵していません。子爵となったのは弟の青山忠誠です。忠誠は旧藩士の救済に力を尽くし、丹波篠山市公式によれば福澤諭吉の支援を得て明治九年十二月二十八日に「私立篠山中年学舎」を創設、明治十八年に鳳鳴義塾と改めました。いまの篠山鳳鳴高校の前身です。明治二十年七月二十三日に二十九歳で亡くなり、明治二十五年十一月七日に正四位を追贈されています。
城跡は国の史跡、大書院は平成の再建、藩校の流れは高校へ。六万石の城下町には、その三つが続いています。
篠山藩をもっと詳しく
藩の成り立ち—四つの家が治めた篠山
篠山藩の始まりは慶長十四年(1609年)です。山陰道の要衝である篠山盆地に、大坂の豊臣氏や西国大名への押さえとして、15か国20大名の手伝い普請で篠山城が築かれ、同じ年の末に松井松平康重が丹波八上から政庁を移しました。こうして八上藩が篠山藩になります。
康重が元和五年(1619年)に和泉岸和田へ移ると、上野高崎から藤井松平信吉(家康の異父妹の子)が入り、その子忠国が検地や城下町の整備を進めました。慶安二年(1649年)に忠国が播磨明石へ移ると、摂津高槻から形原松平康信が入ります。形原松平家では4代信庸が京都所司代・老中を務め、藩の全盛期を築いたとされますが、5代信岑のときに享保の飢饉と重税で一揆が相次ぎ、寛延元年(1748年)に丹波亀山へ移されました。これと入れ替わりに亀山から来たのが青山忠朝で、以後、青山家が明治まで篠山を治めました。
石高は長く5万石でしたが、4代青山忠裕が老中を三十年にわたって務めた功により、文政十年(1827年)に遠江で1万石を加増され、6万石となりました。5代忠良も老中に就いています。
先祖と家の格式
青山家は、松平広忠と家康に仕えた青山忠門を記録上の初見とし、その子忠成が徳川秀忠の側近となって、関ヶ原の戦いの後に大名に列しました。安祥(安城)時代から松平家に仕えた最古参の「安祥譜代七家」の一つに数えられる家です。宗家は江戸崎、岩槻、小諸、浜松、丹波亀山と移り替わった末に篠山へ落ち着きました。宗家だけが使ったとされる家紋「無字銭(青山銭)」は、祖先が後醍醐天皇から銀銭を賜ったことに由来すると伝わります。
本家と分家—美濃郡上の青山家
忠成の四男幸成の系統は分かれて大名家となり、遠江掛川、摂津尼崎、信濃飯山、丹後宮津を経て美濃郡上藩に入り、4万8千石で廃藩置県を迎えました。明治十七年(1884年)の華族令では、篠山の青山忠誠と郡上(八幡)の青山幸宜がそろって子爵に列しています。
領地のようす
幕末の領地は、丹波国多紀郡の全域104村を中心に、桑田郡56村、船井郡12村、何鹿郡4村、天田郡2村、但馬国朝来郡16村、摂津国武庫郡3村、そして加増で得た遠江国榛原郡10村・城東郡14村でした。明治二年(1869年)に遠江の領地は静岡藩に組み込まれ、代わりの土地が与えられています。
稲作のほかに大きな産業がなく、藩財政も領民も苦しかったため、京・大坂へ出稼ぎに出たまま戻らない人も少なくなかったといいます。藩は人手が減るのを恐れて出稼ぎを制限しましたが、4代忠裕は農民市原清兵衛らの直訴を受け、冬のあいだ灘など摂津の酒造地へ杜氏として出稼ぎに行くことを認めました。また京焼の陶工欽古堂亀祐を招いて窯を開かせるなど、産業を興す手も打っています。それでも明治三年末(1871年)の藩の借財は28万1329両にのぼったと伝わります。
一揆の多い藩でした
出稼ぎの制限や、財政立て直しのための増税・新税が重なり、青山家の時代には明和八年(1771年)、万延元年(1860年)、明治二年(1869年)に大きな一揆が起きました。小さな一揆や打ちこわしを合わせると20件を超えるといわれ、藩が一揆側の要求をのむことも少なくなかったと伝わります。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、幕末の6万石のこの藩はおよそ1,410人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「篠山藩」「青山氏」

