真武根陣屋:幕末時は藩主林忠崇自ら遊撃隊として戊辰戦争に参加した請西藩陣屋跡【お城特集 日本の歴史】

真武根陣屋(請西藩)

真武根陣屋は現在の千葉県木更津市にあった請西藩一万石(林家)の陣屋跡です。林家は「徳川家斉」が11代将軍に就任すると、時の当主「林忠英」が小姓として出仕します。忠英は将軍の寵臣となり側用人や若年寄などを歴任し徐々に立身、ついに一万石の知行となり、初めて大名として認められました。

真武根陣屋:幕末時は藩主林忠崇自ら遊撃隊として戊辰戦争に参加した請西藩陣屋跡【お城特集 日本の歴史】

真武根陣屋:幕末時は藩主林忠崇自ら遊撃隊として戊辰戦争に参加した請西藩陣屋跡【お城特集 日本の歴史】

この時は木更津の海岸近くの貝淵に陣屋を設けて「貝淵藩」が成立します。その後、徳嘉永三年(1850年)に貝淵藩は木更津の高台へと陣屋(真武根陣屋)を移し「請西藩」と呼ばれるようになります。江戸時代末期に戊辰戦争が勃発すると薩長を主力とする新政府軍に対抗するべく、藩主「林忠崇」は旧幕府軍からなる遊撃隊に自ら参加しました。房総半島や北関東などを転戦した後、仙台にまで辿り着きここで降伏しました。

真武根陣屋:幕末時は藩主林忠崇自ら遊撃隊として戊辰戦争に参加した請西藩陣屋跡【お城特集 日本の歴史】

なお、林忠崇は幕末にみずから脱藩して旧幕府軍に加わった唯一の大名で、請西藩はそのために改易されました。最後まで徳川家への忠義を貫いた藩として知られています。

目次

陣屋を築いた忠旭と、みずから火を放った忠崇

木更津市の解説によりますと、この陣屋を造営したのは林播磨守忠旭で、嘉永三年のことでした。林家は一万石の譜代大名で、代々若年寄など幕府の要職を務める家柄です。忠旭の五男にあたる忠崇は、慶応三年に二十歳で家督を継ぎます。そして慶応四年、戊辰戦争の勃発にあたり、新政府軍へ抵抗するため、忠崇は不退転の決意からみずから陣屋を焼き払って出陣したと伝えられています。引き返す場所を自分の手で消してしまったわけです。

箱根から奥羽へ、そして昭和十六年まで

脱藩した忠崇は、遊撃隊の伊庭八郎や人見寧、すなわち人見勝太郎らとともに箱根で新政府軍と戦い、敗れたのちは東北へ走って奥羽同盟の側に加わりました。降伏は明治元年十月で、東京へ護送され、唐津藩邸に禁錮の身となります。明治五年に許されると旧領の請西へ戻って帰農し、明治七年には東京府の中属として勤めました。家名については弟の忠弘に禄三百石が与えられ、士族の地位が認められています。忠崇が世を去ったのは昭和十六年一月二十二日のことでした。

土塁が残る市指定史跡

真武根陣屋遺址は、昭和四十一年四月二十二日に木更津市の指定文化財、記念物のうち史跡として指定されました。指定の員数は三十九平方メートル、所有者は木更津市で、所在地は木更津市請西千百三十九の三十三と示されています。焼き払われた建物そのものは失われましたが、当時の土塁はいまも残されており、木更津の高台に営まれた一万石の藩庁の輪郭をわずかに伝えています。

林家と「献兎賜盃」

兎の吸い物 請西藩主の林家には、徳川家と特別な縁で結ばれていたという言い伝えがあります。徳川家の祖・松平親氏が貧しく流浪していたころ、林家の祖先が雪の日に兎を射とめて吸い物にしてもてなしたというのです。この話にちなんで、江戸時代には毎年正月に林家の当主が将軍に兎の吸い物を献上し、将軍から盃を賜る「献兎賜盃」の儀式が行われました。

最後の大名へ わずか一万石の小藩でありながら、林家は徳川家との深い結びつきを誇りとしていました。戊辰戦争で藩主の林忠崇がみずから藩を脱けて旧幕府のために戦ったのも、こうした家の歴史と無縁ではなかったと考えられます。

閏四月三日、七十名と三十六名

陣屋を焼いて出た日の人数が、木更津市の資料に残っています。

慶応四年閏四月三日、林昌之助忠崇は二十一歳。藩兵およそ七十名と遊撃隊士三十六名を率いて真武根陣屋を発ちました。一万石の藩が動かせる兵は、これくらいの数です。

閏四月七日に保田の芝台へ入り、五月十九日に東へ向かい、五月二十六日には箱根の山崎で戦っています。ともに動いた遊撃隊の中核は伊庭八郎が二十五歳、人見勝太郎が二十六歳。二十代前半から半ばの三人が、百名ほどを連れて房総から箱根まで出ていったことになります。

二十九村、五千六百石

請西藩の領地は二十九村、およそ五千六百石でした。一万石の格でありながら、実際の村数と石高はこの規模です。

陣屋の跡として木更津市が指定しているのは、請西1139番地の三三、面積はわずか三十九平方メートル。土塁の一部です。藩の痕跡として残されている土地の広さが、三十九平方メートルという数字で示されているところに、この藩の終わり方が出ているように思います。

昭和十二年、生きている唯一の元大名

忠崇は明治二十六年に家名を再興し、そのあとも長く生きました。昭和十二年には、生存する唯一の元大名となっています。

慶応四年に二十一歳で陣屋を焼いた人が、昭和十二年まで生きて、ほかの大名がすべて世を去ったあとに一人残る。亡くなったのは昭和十六年一月二十二日、九十四歳でした。戊辰戦争から七十三年が経っています。

参考資料

出陣の日付と人数、陣屋の造営、指定の内容は木更津市の公開資料、箱根での戦いの経過と遊撃隊士の年齢は神奈川県および関係市町の公開資料によります。忠崇の辞世として伝わる句には複数の伝があり、ここでは引用していません。

場所・アクセス・地図

千葉県木更津市請西

  • URLをコピーしました!
目次