【現地取材】日本三大平山城・津山城を歩く——尊皇攘夷派を抑え無事に幕末を乗り切った津山藩

美作国津山(現在の岡山県津山市)にそびえる津山城は、本丸まで45メートルにも達する高石垣を誇る「日本三大平山城」のひとつです。江戸時代には松平家10万石の津山藩の居城となり、幕末には藩主・松平慶倫が朝廷と幕府の調停役を務めるなど、激動の時代を独自の立ち回りで乗り切りました。実際に津山城(鶴山公園)とその周辺を歩いてきました。

史跡津山城跡の碑
「史跡津山城跡」の碑。奥には津山城名物の高石垣が広がる。
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津山城とは——高石垣が物語る森忠政の名城

津山城は慶長8年(1603年)、信濃川中島藩から美作一国18万6500石で入封した森忠政(森蘭丸の末弟)によって立藩しました。忠政は地名を「鶴山」から「津山」に改め、翌慶長9年(1604年)に築城に着手。実に13年の歳月をかけて元和2年(1616年)に完成させました。本丸まで45メートルに達する高石垣が特徴で、築城当初は姫路城や広島城に匹敵する数の櫓を備えた堅城だったと伝わります。明治の廃城令により建物の多くは取り壊され、現在は壮大な石垣群のみが残っていますが、平成16年(2004年)の築城400年を記念して備中櫓が復元され、往時の姿の一端を今に伝えています。

津山城を築いた森忠政公の像
津山城を築いた森忠政公の像。石垣を背に、今も城下を見守っている。

幕末の津山藩——尊皇攘夷派を抑え乗り切った転換期

森家は元禄10年(1697年)に跡継ぎ問題から改易となり、翌年、結城秀康を祖とする越前松平家宗家の松平宣富が10万石で入封。以後、松平家10万石の津山藩として明治維新を迎えます。幕末最後の藩主・松平慶倫は文久3年(1863年)、国事周旋の内勅を受けて上京し、朝廷と幕府の調停役を務めました。同年の「八月十八日の政変」以降は藩内の尊皇攘夷派を排斥する方針を取り、藩論の混乱を抑えながら戊辰戦争を無事に乗り切っています。明治2年(1869年)の版籍奉還で慶倫は津山藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県により津山県となり、のちに岡山県へ編入されました。

津山城の壮大な高石垣と石段
幾重にも積み上げられた津山城の高石垣。石段を登るごとに視界が開けていく。

現地を歩いて感じたこと

訪れた日は雲ひとつない快晴で、45メートルにも達する高石垣の迫力に圧倒されました。石段を一段一段登るごとに視界が開け、復元された備中櫓の白い外壁が青空に映えていました。天守や多くの櫓は失われているものの、石垣の規模だけでも姫路城や広島城に匹敵したという往時の威容を十分に感じ取ることができます。備中櫓からは津山の市街地を一望でき、この城が美作の要として機能していたことを実感するひとときとなりました。

備中櫓から見下ろす津山市街地
備中櫓越しに見下ろす津山の市街地。美作の要としての立地の良さを実感する。

アクセス(所在地)

津山城(鶴山公園)は岡山県津山市山下135にあります。JR津山駅から徒歩約10分です。

まとめ

津山城は森忠政が築き上げた高石垣が今も圧倒的な存在感を放つ、日本三大平山城のひとつです。幕末には藩主・松平慶倫が朝廷と幕府の調停役を務め、藩内の尊皇攘夷派を抑えながら無事に戊辰戦争を乗り切りました。石垣に刻まれた歴史の重みを、ぜひ現地でも感じてみてください。各藩の詳しい歩みは全藩情報もあわせてどうぞ。

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