【藩名】
赤穂藩
【説明】
元禄14年(1701年)、第3代藩主「浅野長矩(内匠頭)」は江戸城中で高家旗本「吉良義央(上野介)」に斬りつけ、長矩は切腹し浅野家は改易となりました。そして元禄15年(1702年)、浅野家臣49名による吉良邸討ち入りが起こった(赤穂浪士:忠臣蔵)。長矩の弟「浅野長広」は赤穂新田3000石の所領をいったん召し上げられたが、宝永7年(1710年)に安房国朝夷郡・平郡500石に移され減封ながらも旗本に復しました。長広のあとは嫡男の長純が家督を受け継ぎ、長直系浅野氏は安房国で続くことになります。

元禄14年(1701年)、赤穂藩には代わって下野国烏山藩より永井直敬が3万2000石で入封します。しかし、5年後の宝永3年(1706年)には信濃国飯山藩へ転封となっています。同年、備中国西江原藩より森長直が2万石で入封し、廃藩置県までの165年間を赤穂藩主として統治しました。第5代藩主「忠洪」は財政改革を断行し藩主自ら質素倹約を行い、貯蓄を奨励しました。更に塩田開発や蝋燭の原料となる櫨の植林等殖産興業にも努めました。第10代藩主「忠徳」は文化6年(1809年)、遂に塩を専売制としました。
幕末の安政4年(1857年)になると、藩政の改革をめぐり保守派・革新派の対立が起こり藩内は分裂。革新派の一部は脱藩し長州藩へ奔りました。文久2年(1862年)、攘夷派が保守派の家老を暗殺するという事件が起こり藩論は分裂したまま明治維新を迎えることとなりました。戊辰戦争が勃発すると新政府軍に与して姫路藩攻撃に参戦しました。
明治4年(1871年)、廃藩置県により赤穂県となります。その後、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入されました。
※筆頭家老大石内蔵助邸宅跡
【赤穂藩・場所・アクセス・地図】
赤穂藩をもっと深く——もう一つの仇討が、幕末の赤穂で起きていた
赤穂といえば元禄の四十七士です。だが幕末の赤穂でも、家老が斬られ、その報復として仇討が行われています。百六十年をへだてて、同じ土地で二度目の刃傷が起きました。
朱子学一辺倒の藩
森家二万石の藩学は朱子学に徹していました。古学も国学も蘭学も排斥されました。その結果、幕末の思想の波が入ってこず、藩内では佐幕・保守派が力を持ちます。安政四年、一門の森主税が家老に就任しました。
同じころ藩政改革をめぐって保守派と革新派が対立し、革新派の一部は長州藩へ脱藩しています。藩主・森忠徳は病弱で藩政を執れず、実権は家老の手にありました。
文久二年十二月九日の夜
そして文久二年十二月九日の夜、尊攘派の西川升吉ら総勢十三名(実行は五名)が、赤穂城の門前で家老・森主税を斬殺しました。同じ夜、藩儒の村上真輔も殺されています。
村上真輔は寛政十年生まれの藩儒で参政も務めた人物です。その子で朱子学者の河原翠城は、福泉寺で自害しました。「文久赤穂事件」と呼ばれます。
加害者十三人は脱藩して京へ上りました。八月十八日の政変ののち再び脱藩し、最終的に六人が残ります。
明治四年、高野街道で
ここからが元禄と重なる部分です。明治四年正月十二日、村上家の復権が認められました。そして同年二月、村上一族が高野街道で加害者たちを討りました。「高野の仇討」と呼ばれます。
廃藩置県の半年前です。藩がなくなる直前に、藩の内紛が仇討という形で決着しました。日付の表記には史料によって揺れがあります。
姫路城を攻めた赤穂藩
政治的立場としては、赤穂藩は長らく佐幕でした。元治元年と慶応二年の長州征討には幕府側として動員されています。
ところが鳥羽伏見の敗報が届くと、慶応四年正月十二日、藩は新政府へ帰順しました。そして戊辰戦争では新政府軍の一翼として、姫路藩追討——つまり姫路城攻めに参加しています。
姫路城は慶応四年正月十七日に無血開城し、岡山藩が占領しました。播磨の隣り合う藩どうしが、正月のうちに敵味方に分かれています。
幕末の三代
藩主は森忠徳(文久二年隠居)、森忠典(慶応四年三月隠居)、そして最後の森忠儀と三代替わりました。忠儀は嘉永三年生まれ、忠徳の三男です。
明治二年に版籍奉還で赤穂藩知事、明治四年の廃藩置県で免官。赤穂県を経て兵庫県に編入されました。森家は明治十七年に子爵となります。忠儀は明治十八年、三十六歳で死去しました。
全国的に名の知れた志士は、幕末の赤穂からは出ていません。朱子学に閉じた藩が、内側でだけ激しく揺れた——それが幕末の赤穂です。

