三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)は、徳川家康が生まれた地として知られています。その中心にそびえるのが岡崎城。江戸時代には譜代の名門・本多家五万石の岡崎藩の居城となり、幕末には藩主が老中として幕政に深く関わりました。あいにくの雨でしたが、実際に岡崎城とその周辺を歩いてきました。
岡崎城とは——家康生誕の城
岡崎城の起源は室町時代にさかのぼり、康正年間(1450年代)に西郷稠頼が龍頭山に築いた砦がはじまりと伝えられます。享禄年間(1530年前後)には松平清康(家康の祖父)が城を拡張し、ほぼ現在の岡崎城の姿を整えました。天文11年(1542年)、この城内で徳川家康が竹千代として誕生します。家康は幼くして今川家の人質となりますが、桶狭間の戦いで今川義元が討たれた永禄3年(1560年)、岡崎城に戻って独立を果たしました。以後、岡崎城は「東照公(家康)ご生誕の城」として江戸時代を通じて特別視されます。元和年間に完成した天守は明治6年(1873年)の廃城令で取り壊されましたが、昭和34年(1959年)、鉄筋コンクリート造で復興天守がよみがえりました。

幕末の岡崎藩——佐幕と尊皇のはざまで
江戸時代、岡崎城には譜代の名門・本多家が五万石で入り、以後歴代の居城となりました。幕末の藩主・本多忠民は、藩財政の立て直しに取り組む一方、京都所司代や老中として幕政の中枢に参与し、公武合体の実現に尽力した人物です。しかし、藩主が幕府中枢と深く結びついたことは、藩内に大きな緊張をもたらしました。旧幕府を支持する佐幕派と天皇を奉じる尊皇派とが対立し、脱藩する藩士も現れます。岡崎藩の佐幕派の中には、人見勝太郎・伊庭八郎・林昌之助らが率いた遊撃隊に触発されて藩を離れ、彼らと行動をともにした者もいました。最後の藩主・本多忠直は明治2年(1869年)の版籍奉還で岡崎藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で岡崎藩は幕を閉じます。徳川家康ゆかりの譜代大名でありながら、時代の大転換に翻弄されたその姿は、幕末の譜代藩が抱えた苦悩をよく物語っています。岡崎藩の詳しい歩みは全藩情報のページでも紹介しています。

現地を歩いて感じたこと
訪れた日はあいにくの雨でしたが、堀や石垣に降りかかる雨が、かえって城の重厚な雰囲気を引き立てているように感じました。園内の「三河武士のやかた家康館」では、きらびやかな甲冑の展示に目を奪われ、家康公の像の前に立つと、この地から天下人が生まれたという歴史の重みを改めて実感しました。岡崎公園は桜の名所としても知られ、地元では八丁味噌を使った料理も名物になっています。
アクセス(所在地)
岡崎城は愛知県岡崎市康生町にある岡崎公園内にあります。名鉄東岡崎駅から徒歩約15分です。
まとめ
岡崎城は徳川家康生誕の城として、江戸時代を通じて格別の格式を保った城です。幕末には藩主・本多忠民が幕政の中枢を担う一方、藩内は佐幕派と尊皇派に分裂し、時代の大きなうねりに直面しました。家康誕生の地に立ち、そこから幕末まで続く物語に思いを馳せてみてください。各藩の歴史は全藩情報もあわせてどうぞ。

