【藩名】
三日市藩(郡山藩支藩)
【説明】
幕末期、三日市藩は外国船の到来に備えて「軍備増強」に多額の経費を投入した上、幕府から新潟港や青山海岸、江戸飛鳥山近辺の警備を命じられました。さらに第8代藩主「柳沢徳忠」の家督相続による費用と「安政の大地震」での藩邸復旧費用、朝廷に対する費用などの出費も重なり、遂に藩財政は破綻寸前を迎えました。
明治元年(1868年)の「戊辰戦争」では、新発田藩と行動を共にし新政府軍側につきました。これにより戊辰戦争後は減封などの処罰を受けなかったです。翌年「版籍奉還」により「柳沢徳忠」は三日市藩知事となります。明治4年(1871年)の「廃藩置県」により三日市藩は廃藩となり三日市県となります。そして同年、三日市県は新潟県に編入されました。
本家・郡山藩との関係(柳沢家)
三日市藩は、越後の柳沢家一万石の藩で、大和の郡山藩と同じ柳沢一族に連なります。
戊辰戦争では、三日市藩は近隣の新発田藩とともに新政府軍へ協力しました。最後の藩主は柳沢徳忠です。柳沢家の分家として、越後の地で維新の動乱をくぐり抜けた小藩でした。
陣屋は三日市ではなく上館にあった
三日市藩の陣屋の場所は、少し注意が要ります。藩の名は三日市ですが、陣屋が築かれたのは隣の上館で、現在の新潟県新発田市上館、新発田市立七葉中学校の敷地にあたります。
築いたのは初代の柳沢時睦で、享保十五年(1730年)の着工です。廃止は明治四年(1871年)でした。建物の遺構は残っていませんが、学校の門のあたりに陣屋の図を添えた説明板が立っています。向かいの八幡神社の屋根に柳沢家の花菱紋が残っており、これが唯一の名残だと案内されているそうです。
甲斐から越後へ
この藩の出発点は甲斐にあります。宝永六年(1709年)、柳沢吉保が隠居して家督を長男の柳沢吉里に譲った際、吉里は庶弟の柳沢時睦と柳沢経隆にそれぞれ一万石を分けました。これが甲府新田藩です。陣屋を持たない、江戸定府の藩でした。
享保九年(1724年)三月、本家の吉里が郡山藩へ移されると甲斐は幕府の直轄領となり、時睦は同年三月十一日に越後三日市へ、経隆は閏四月二十八日に越後黒川へ移されます。どちらも大和郡山藩の支藩という位置づけでした。時睦は三日市藩を立ててわずか三か月で家督を譲り、二代は吉保の七男の柳沢保経が継いでいます。
海防と地震で傾いた藩財政
幕末の三日市藩は、外国船への備えに多額の費用を投じました。幕府からは新潟町の関屋・青山海岸、そして江戸の飛鳥山近辺の警備を命じられています。一万石の小藩には重い負担でした。
そこへ安政の大地震による江戸藩邸の復旧費が重なり、朝廷への費用負担も加わって、藩の財政は破綻寸前まで追い込まれます。八代藩主の柳沢徳忠が家督を継いだのは安政三年四月四日、父の泰孝が没した当日で、徳忠はこのときまだ三歳でした。
藩主が初めて国入りした年に、戦争が来た
三日市藩の歴代藩主のうち、実際に藩領へ入ったのは最後の藩主である徳忠ただ一人です。それも慶応四年(1868年)のことでした。
徳忠は同年三月十八日に江戸を発ち、四月六日に三日市へ着きます。そして七月二十八日、官軍に降伏しました。八月二十一日には新潟で小松宮彰仁親王に拝謁しています。以後は新発田藩と軍事行動をともにしました。
その新発田藩の動きが、越後の戊辰を決めています。新発田藩は慶応四年五月十五日から十六日にかけて米沢藩の中老らに同盟加盟を迫られ、十七日に奥羽越列藩同盟への加盟を藩内へ布告しました。しかし藩内の不服は強く、密使を京都へ送って新政府に真意を伝えます。七月二十四日から二十五日にかけて黒田了介の率いる新政府軍千余名が佐渡の小木港を経て太夫浜に上陸すると、新発田藩はこれに合流しました。二十六日夜から信濃川をはさんだ砲撃戦となり、二十九日未明に新政府軍が渡河して新潟を制圧します。米沢藩の総督・色部長門は自害しました。
八月十三日、三条で新発田藩主の溝口直正とともに、三日市と黒川藩(郡山藩支藩)の両藩主が官軍に先導されています。黒川藩は会津藩の求めに応じて奥羽越列藩同盟へ家臣を送っていましたが、終始消極的な立場にとどまり、このとき新政府の側へ移りました。同じ柳沢家から分かれた二つの藩が、ほとんど同じ道をたどったことになります。
新発田に残るもの
新発田城には本丸の表門と旧二の丸隅櫓が現存し、いずれも国の重要文化財です。三階櫓と辰巳櫓は平成十六年(2004年)に復元されました。ただし城跡の大部分は陸上自衛隊の駐屯地となっているため、三階櫓の内部は公開されていません。
新発田藩の下屋敷の庭園である清水園は国の名勝で、隣には足軽長屋も残っています。三日市の陣屋跡とあわせて歩けば、越後の小藩と大藩がどう戊辰を越えたかが見えてきます。
【場所・アクセス・地図】

