安房三枝藩の歩み
「三枝守昌」は「関ヶ原の戦い」や「大坂の陣」において武功を挙げ、「徳川忠長」に仕えて一万五千石を与えられたが、忠長改易に連座して失脚したといいます。その後、再び幕臣として召し出されています。寛永十五年(1638年)二月八日、守昌は安房国安房郡・平群郡・朝夷郡内に一万石が与えられ、諸侯に列しました。
しかし、翌寛永十六年(1639年)閏十一月二十九日に守昌は死去しています。後を継いだ「守全」は、遺領一万石のうち三千石を弟の「諏訪頼増」に分与し、自身は七千石を領する旗本となったため、この藩は立藩から2年足らずで廃藩となりました。
守昌の墓がある智蔵寺(南房総市山名)に隣接して三倉陣屋(御蔵陣屋)があり、守昌の陣屋跡とされています。
廃藩のあと—武田の遺臣が房総の海辺に置いた、二年の藩
安房三枝藩は寛永十五年(1638年)二月、三枝守昌が安房郡・平群郡・朝夷郡にまたがる一万石で立藩しました。ところが翌寛永十六年に守昌が五十五歳で世を去り、廃藩となります。二年足らずでした。
嫡男の守全は一万石のうち三千石を弟の諏訪頼増に分け、自身は七千石の旗本となりました。
この三枝家は甲斐武田氏に仕えた家系です。三枝虎吉が徳川の四奉行の一人となり、その子・守昌の代から旗本寄合となりました。甲斐の武田遺臣が房総の海辺で一万石の大名になり、一年余りで消えたことになります。
旧三枝藩領が幕末に誰の領地だったかは、村単位では確認できません。幕末の安房国は勝山藩・館山藩といった諸藩と、幕府領・旗本領に分かれており、天保のころで二百八十か村を数えます。
その安房が動くのは慶応四年です。七月、駿河田中藩主の本多正訥が安房へ所替えを命じられ、長尾藩が成立しました。南房総市白浜町滝口に長尾陣屋を築きましたが、明治三年から館山の北条にある海防陣屋を改修して移り、同年十一月に移転を終えています。明治二年には勝山・館山に長尾・花房を加えて、安房は四つの藩が並ぶ状態になりました。
三枝藩の陣屋がどこにあったかは、有力な説として南房総市山名の智蔵寺付近とするものと、館山市北条とするものがありますが、いずれも自治体の公式な記載は見つけられませんでした。
駿河大納言・徳川忠長とともに沈んだ前半生
三枝守昌は、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに徳川秀忠の小姓として従い、五百石を与えられたところから身を起こしました。元和八年(1622)、父とともに秀忠の三男・徳川忠長の付家老のような立場につけられ、駿河の田中城で一万石を領します。忠長は兄の家光と将軍の座を争ったとされる人物で、のちに駿河・遠江・甲斐など五十五万石を治め、「駿河大納言」と呼ばれました。
ところが忠長は乱行を咎められ、寛永九年(1632)に改易、翌年には高崎で自害に追い込まれます。仕えていた守昌も連座して領地を失い、陸奥棚倉藩主の内藤信照に預けられました。許されて幕臣に戻ったのは寛永十三年(1636)のことです。安房の一万石は、その二年後に与えられたものでした。将軍家の兄弟争いに巻き込まれて一度はすべてを失い、ようやく大名に返り咲いた翌年に亡くなったことになります。
武田の遺臣と、二つの旗本家
三枝家はもともと甲斐の武田家に仕えた家で、武田家が滅びたあとに徳川家康に召し抱えられた「武田の遺臣」の一つです。家康は甲斐を手に入れると武田の旧臣を大量に家臣団へ組み込み、その軍制や治水の知恵を取り入れました。三枝家もその流れの中で徳川の家臣となりました。
守昌の死後、家は守全の三枝家と、弟・頼増の諏訪家の二つの旗本家に分かれ、ともに幕末まで続いています。大名としての三枝家は二年で終わりましたが、武田の遺臣の家は、旗本として徳川の時代の最後まで仕え続けたのでした。
徳川四奉行の孫—安房三枝藩の三枝守昌
武田の旧臣から家康の奉行へ
三枝藩の三枝家は、甲斐武田家の旧臣の家です。藩主・三枝守昌の祖父・三枝虎吉は、武田家が滅んだあと家康に仕え、甲斐の支配にあたった「徳川四奉行」の一人に数えられます。父の昌吉も家康に仕えました。家格は譜代です。
諏訪家の娘を妻に
守昌の正室は、信濃高島藩主・諏訪頼水の娘でした。諏訪家は諏訪大社の大祝の家で、武田信玄に滅ぼされたのち、家康のもとで旧領を取り戻した家です。武田の旧臣と、武田に滅ぼされた家が縁組でつながったことになります。
陣屋と墓所
三枝藩の陣屋は、いまの館山市の智蔵寺付近にあった「御蔵陣屋」と考えられています(北条陣屋だったとする説もあります)。三枝家の墓は、西念寺と智蔵寺に伝わります。
甲斐から安房へ
武田家の家臣だった家が、家康の奉行となり、孫の代には海を臨む安房の殿様になる。三枝家の移り変わりは、武田の遺臣たちが徳川の支配の仕組みにどう組み込まれていったかをよく表していると思います。
武田の遺臣から大名へ
武田家の旧臣の流れをくんで大名になった家は、三枝家のほかにもあります。米倉家(六浦藩)や柳沢家(甲府新田藩)がその例で、両家は婚姻でも結ばれていました。甲斐を失った家臣団が、徳川の世でそれぞれに家を立てていった姿がうかがえます。



