東条藩の歩み
元和六年(1620年)九月、下総国生実で五千石を知行していた旗本「西郷正員」は、安房国への転封・加増を受けて一万石の大名となり、「東条藩」を立藩しました。
東条藩の藩庁場所は現在の「西郷氏館跡」が有力とされておりほぼ間違いないといいます。
正員は寛永十五年(1638年)十一月十四日に死去し、跡を子の延員が継ぎました。延員は名君で、領民にも慕われていたと言われているが、後継には恵まれなかったです。元禄三年(1690年)十二月二十五日、家督を養嗣子の「寿員」に譲って隠居したが、間もなく幕府から不行状を理由に蟄居処分となりました。
徳川綱吉の側近として仕えていた寿員は、元禄五年(1692年)二月七日、下野国上田(下野上田藩)に移封され東条藩は廃藩となりました。
西郷家は、安房へ戻ってきませんでした
元禄五年(1692年)に西郷寿員が下野へ移り、東条藩は消えます。その後の西郷家がどうなったかを追ってみました。翌元禄六年(1693年)十二月、寿員は職務怠慢を咎められて所領を半分に減らされ、五千石の旗本となります。下野上田藩も同時に廃藩となりました。
ここでよく「交替寄合となった」と書かれます。ただし交代寄合は老中支配で参勤する特別な家格であり、その家名一覧に西郷家は見当たりません。下野上田藩について書かれたものでは「寄合入り」とされており、確実に言えるのは「五千石の旗本」までです。
そして元禄十一年(1698年)三月、寿員の知行地は下野から近江国内へ移されました。安房東条へ戻ることはありませんでした。これ以降、幕末までの当主の名も、戊辰戦争でどう動いたかも、確認できる資料を見つけられませんでした。
いっぽう安房の地は、幕末に大きく姿を変えます。明治元年、徳川宗家が駿府へ移されたことで、東海の諸藩がまとめて房総へ動かされました。駿河田中藩が安房へ移って長尾藩となったのは、その一例です。房総の地図は、この一年でほとんど描き直されました。
東条にあった陣屋の跡は、現在の千葉県鴨川市東町にあたります。『日本歴史地名大系』は字「御屋敷」とし、城跡を紹介する資料は字「宝性寺」、新明神社の南側の水田あたりとします。字のレベルでは資料が分かれています。
地表に遺構はなく、標柱の類も立っていません。発掘では近世のものとみられる溝が七条見つかっていますが、詳しいことは分かっていません。埋蔵文化財の登録上は「西郷氏館跡・東条陣屋跡」と呼ばれます。鴨川市の指定文化財の一覧には入っていないようです。
二代将軍秀忠の母・西郷局の縁
東条藩の西郷家は、三河の国人・西郷氏の流れをくむ家で、徳川家康の側室・西郷局(お愛の方)と深い縁がありました。西郷局は家康のあいだに、のちの二代将軍・徳川秀忠と、尾張の清洲城主となった松平忠吉を産んだ女性です。東条藩を開いた西郷正員にとって、西郷局は義理の叔母にあたりました。将軍の母の実家筋という立場が、西郷家が旗本から大名へ取り立てられた背景にあったと考えられます。
正員は文禄二年(1593)、下総の生実(いまの千葉市中央区)五千石の旗本の家に生まれ、兄の死で家を継ぎました。大坂の陣では安房の守りや小田原城の守備にあたり、元和六年(1620)に安房の二郡を加えられて一万石の大名となります。寛永九年(1632)、秀忠の三男・徳川忠長が改易されると、その遺臣の身柄を預かる役目も務めました。
西郷隆盛とは別の「西郷」
なお、この三河の西郷家は、幕末の薩摩藩の西郷隆盛の家とは関係がありません。名字が同じでも、三河の西郷氏と薩摩の西郷家はまったく別の系統です。安房の東条にあった西郷家の陣屋は、明治維新で西郷隆盛が活躍した時代より百七十年以上前に、すでにこの地を去っていました。
大村純長の五男を婿に—東条藩の松平(藤井)家
城の受け取り役を務めた家
東条藩の家は、藤井松平家の流れをくむ譜代の家です。正員(まさかず)は、小田原城や安房館山城の受け取り、遠江久野城の城番など、幕府の命で城を預かる役を何度も務めたとされます。
九州のキリシタン大名の家から来た婿
のちの当主・寿員(ひさかず)は、肥前大村藩主・大村純長の五男で、婿養子として家を継ぎました。大村家は、戦国時代に日本で最初のキリシタン大名・大村純忠を出した家です。房総の譜代の家と九州の外様の家が、養子でつながっていたことになります。
跡継ぎの入れ替え
寿員のあとでは、跡継ぎが入れ替わる出来事があったとされます。延員(のぶかず)の代には家の継承をめぐって混乱があり、それが藩の終わりにつながりました。一族の墓所は、荒川区の法光寺にあると伝わります。(くわしくは下野上田藩のページもご覧ください。)
養子でつながる遠い家
房総の小藩の当主が、キリシタン大名の家から来ていた。江戸時代の大名家は、領地が遠くても養子と縁組で網の目のようにつながっていました。東条藩は、その網の一つの結び目だったと思います。
西郷家のその後の領地
東条を離れた西郷寿員は、元禄5年(1692)に下野へ移されて下野上田藩を立てましたが、2年足らずで所領を半分に減らされ、旗本となりました。西郷局の縁で取り立てられた家の、その後の歩みは下野上田藩のページで追うことができます。



