本庄藩/小笠原家1万石:小笠原信之 下総古河藩へ加増転封のため廃藩

本庄藩 小笠原家1万石 最後の藩主 小笠原信之
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本庄藩の歩み

本庄城には、新しい城主として小笠原信嶺が入りました。信嶺は入城から8年目の慶長三年(1598年)に亡くなり、跡を継いだ小笠原信之が本庄藩の二代藩主となります。

信之は、徳川四天王の筆頭・酒井忠次の三男で、家康の命令で信嶺の養子になっていました。家康が、信頼できる家臣の血筋を武蔵の要所に置いたことになります。慶長十七年(1612年)、信之は二万石で下総の古河へ移され、本庄藩はわずか二代でなくなり、本庄城も城としての役目を終えました。城がなくなったあとの町は、中山道の宿場町として大きく栄えていきます。

廃藩のあと—幕末の本庄

慶長十七年(1612年)に小笠原信之が下総古河へ移り、藩も城も消えました。城下町でなくなった本庄は、代わりに宿場町として大きくなります。

天保十四年(1843年)には人口四千五百五十四人、家数千二百十二軒。本陣二軒、脇本陣二軒、旅籠七十軒。中山道六十九宿のなかで人口も建物数も最大の宿場でした。一万石の城下町だった時代よりはるかに賑わっていたことになります。

文久元年(1861年)には和宮降嫁の行列がこの宿を通り、田村本陣に記録が残っています。

児玉郡の幕府領は木村飛騨守・伊奈半左衛門・川田玄蕃の各支配所が分けて管轄していました。本庄宿そのものの領主が誰だったかは、わかっていません。

なお本庄には新選組にまつわる話が語られることがありますが、そうした伝承は本庄の地元に一つも残されていないと指摘されています。当サイトではこれを事実として扱いません。

城跡は城山稲荷神社の周辺で、本丸は神社の南西部から市役所との間あたりと推定されています。地表で確認できる遺構はほとんどなく、発掘調査と検地帳から位置を割り出している状況です。宿場のほうは田村本陣門や天明の飢饉蔵、養蚕と製糸で財を成した諸井家住宅などが残ります。

武田を見限った小笠原信嶺

本庄に入った小笠原信嶺(のぶみね)は、信濃の伊那谷・松尾城を本拠とした松尾小笠原家の当主です。長く武田信玄・勝頼に仕えましたが、天正十年(1582)に織田信長の軍勢が信濃へ攻め込むと、いち早く織田方に降り、信長の嫡男・信忠の軍を伊那谷へ導きました。この裏切りが武田家の崩れを早めたとされます。武田家が滅んだあとは徳川家康に仕え、天正十八年(1590)、家康の関東入りに従って武蔵の本庄一万石を与えられました。

本庄の城は、もとは鎌倉時代以来この地を治めた武蔵七党の一つ・児玉党の流れをくむ本庄氏の城でした。小田原の北条氏に従っていた本庄氏は、北条氏とともに姿を消し、その城に信濃から来た小笠原氏が入ったのです。

酒井忠次の子から始まった越前勝山藩

信嶺の養子となった信之は、徳川四天王の筆頭・酒井忠次の三男でした。信之の家は本庄から下総の古河、関宿、美濃の高須などを経て、元禄四年(1691)に越前の勝山二万二千石へ移り、ここで明治を迎えています。

幕末の勝山藩主・小笠原長守は、奥羽越列藩同盟や佐幕派の多い北陸にあって、慶応四年(1868)の戊辰戦争では新政府に恭順し、北越の戦いに兵を出しました。伊那谷の国人の家に酒井忠次の血が入って始まった家は、本庄で藩を開いてから二百七十年後、越前の山あいで徳川の時代の終わりを迎えたのでした。

同じころの日本—キリスト教の禁止

慶長十七年の禁教令 本庄藩の小笠原家が下総の古河へ移った慶長十七年(1612)、幕府は直轄地でキリスト教を禁じる命令を出しました。そのきっかけとなったのが、家康の側近・本多正純の家臣・岡本大八と、キリシタン大名・有馬晴信のあいだの贈収賄事件(岡本大八事件)です。

全国への禁教 翌慶長十八年(1613)には、禁教が全国に広げられ、宣教師たちは国外へ追放されました。キリシタンの大名や武士は信仰を捨てるか、国を出るかを迫られます。高山右近がマニラへ追放されたのも、この時のことでした。

酒井忠次の息子が継いだ小笠原家—本庄藩と円心寺

武田を裏切った信嶺

本庄藩の藩祖・小笠原信嶺は、信濃松尾(いまの飯田市)の小笠原家の当主で、武田家から織田方に寝返りました。武田勝頼はその報復として、人質だった信嶺の母を処刑したと伝わります。信嶺は天正十二年(1584年)、娘婿にした元武田家臣の下条頼安を謀殺したともいわれる、戦国らしい厳しさを持った人でした。天正十九年(1591年)、本庄に故郷と同じ名の開善寺を建て、低地に住んでいた人々を台地に移して新しい町づくりを始めました。

酒井忠次の子が婿に

跡を継いだ小笠原信之は、徳川四天王・酒井忠次の子で、信嶺の娘と結婚して養子になりました。関ヶ原の前には秀忠に従って信州上田城攻めに加わっています。信之は実父・忠次の供養のため、三河から僧を招いて本庄に円心寺を建てました。家格は譜代です。

板倉家との縁と、関宿

信之の子・政信の正室は、のちに島原の乱で戦死する板倉重昌の娘です(深溝藩)。政信が亡くなると、婿養子の貞信がわずか十歳で継ぎましたが、「幼い藩主では利根川・江戸川の水運の要所・関宿を守れない」として美濃高須へ移されました。この家はのちに越前勝山藩として幕末まで続きます。

中山道の宿場町の始まり

本庄城は、本庄氏時代の城を捨てて新しく築かれた城で、発掘では幅二十メートル・深さ十メートルの堀が見つかっています。開善寺には信嶺夫妻の墓が並んでいます。中山道最大の宿場町となる本庄の町は、武田を離れた信濃の武将が、ここで町を作り直したところから始まったのです。

場所・アクセス・地図

参考資料:Wikipedia日本語版「本庄藩」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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