児島藩/池田家2万石:池田恒元 山﨑藩主が不在のため山﨑へ移封となり廃藩

【藩名】
児島藩

【説明】
児島藩は岡山藩の支藩で、備前から備中南部に領地を有していました。岡山藩主「池田光政」が、慶安元年(1648年)3月19日に岡山藩領の一部を弟の「池田恒元」に分け与えて児島藩が立藩されました。

しかし、実際は備前国児島郡以外の領地も多く、むしろ児島郡内の領地の藩領全体に占める割合は少ない方でした。 慶安2年(1649年)、東隣国播磨の宍粟郡に政庁を構える山崎藩の藩主が不在のため恒元が山崎に転封となり、山崎藩約3万石の藩主となりました。この時に児島藩は廃藩となり、恒元が領有していた地は再び岡山藩に復しました。わずか2年足らずの短期の藩となりました。

【廃藩のあと——塩と綿と足袋の島】

児島藩は慶安元年(1648年)に岡山藩主・池田光政が池田恒元へ分知して立ち、翌年には恒元が山崎藩へ移って廃藩となりました。二年足らずです。所領は岡山藩へ戻り、以後幕末まで岡山藩領でした。倉敷市の説明にも、代々の藩主が下津井城を重視し、老臣を置いて児島全域を領地として与えたとあります。

幕末の児島を作っていたのはです。野﨑武左衛門が文政十三年(1830年)に味野・赤崎の両村沖におよそ四十八ヘクタールの塩田を完成させ、文久二年(1862年)までに百五十ヘクタールほどに広げました。天保四年に大庄屋、弘化四年には苗字帯刀と五人扶持を許されています。

面白いのは、この「塩田王」が塩に行く前にやっていたのが小倉織の足袋の製造販売だったことです。児島の繊維と塩が、同じ一人の中でつながっていたことになります。

ほかにも由加のみやげとして織られていた真田紐が内職から発達し、いまの児島の機業の先駆けとなりました。干拓地では綿が作られ、下津井港からは綿製品と塩が積み出されます。下津井は北前船の寄港地として賑わい、明治末期まで藩内有数の商工地でした。

なお幕末の児島に台場や砲台が築かれたかは確かめられませんでした。

近くで起きた事件としては、慶応二年四月、倉敷浅尾騒動があります。長州第二奇兵隊を脱走した立石孫一郎ら約百名が倉敷代官所を襲って九名が死に、三日後には浅尾藩の陣屋も襲われました。児島の対岸での出来事です。

旧野﨑家住宅は国の重要文化財で、およそ三千坪の敷地に主屋と土蔵六棟が残ります。下津井城跡は岡山県の史跡、「むかし下津井回船問屋」は日本遺産の構成文化財です。

【場所・アクセス・地図】

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