福島県白河市。白い漆喰の御三階櫓が石垣の上にそびえる白河小峰城(しらかわこみねじょう)は、戊辰戦争で最大の激戦地となった城です。ここで慶応四年(一八六八年)に繰り広げられた「白河口の戦い」は、東北の戊辰戦争の帰趨(きすう)を決したとまで言われます。皮肉にも、そのとき城には藩主がいませんでした。総石垣の名城を歩きながら、その数奇な運命をたどります。
丹羽長重が築いた総石垣の城
白河小峰城のもとは、南北朝時代に結城氏によって築かれた中世の城でした。これを石垣造りの本格的な近世城郭へと大改修したのが、丹羽長重(にわ ながしげ)です。長重は寛永年間、隣の棚倉城を築いたのち白河へ移り、この地に東北では珍しい総石垣の城を築き上げました。天守にあたる御三階櫓(ごさんかいやぐら)は、平成三年(一九九一年)に、古絵図と発掘調査にもとづいて木造で忠実に復元されたもの。棚倉城と白河小峰城は、ともに丹羽長重の手になる兄弟のような城なのです。


城主なき城 ― 阿部正外の転封と白河
幕末の白河藩を治めていたのは阿部家でした。ところが藩主で老中の阿部正外(あべ まさとう)が、兵庫開港をめぐる問題で失脚し、慶応二年(一八六六年)に棚倉へ懲罰的に転封されます。その結果、白河は城主を欠いたまま幕府の直轄領(天領)となり、二本松藩が守備を担い、新政府が成立するころには仙台藩が駐屯していました。藩主のいない城が、戊辰戦争最大の激戦地になろうとは、誰が予想したでしょうか。
白河口の戦い ― 戊辰の大勢を決した激戦
慶応四年(一八六八年)、白河城をめぐって、会津藩・仙台藩を中心とする奥羽越列藩同盟軍と、新政府軍とが激突します。閏四月、会津藩が白河城の確保に動き、斎藤一(さいとう はじめ)率いる新選組の一隊も合流、西郷頼母(さいごう たのも)が白河口総督として入りました。同盟軍は数のうえで優勢でしたが、五月一日、伊地知正治(いじち まさはる)や板垣退助が率いる新政府軍が三方から攻め寄せ、巧みな陽動と包囲によって同盟軍は惨敗。白河城はあっけなく奪われました。
以後、同盟軍は七月十四日まで、実に七度にわたって奪還を試みますが、ことごとく失敗に終わります。両軍あわせて多くの戦死者を出し(同盟軍側だけで七百人を超えたとも伝わります)、この白河口の戦いで、東北の戊辰戦争の大勢は決したといわれています。奪われた白河は、会津へと攻め上る新政府軍の橋頭堡となったのです。

総石垣と御三階櫓を歩く
復元された御三階櫓の内部に入ると、上階へは驚くほど急な木の階段が続きます。木造で忠実に復元されているだけあって、板の質感や柱の太さに、往時の城の空気がそのまま息づいていました。石垣の上に立って城下を見渡すと、かつてここが幾度も砲煙に包まれた激戦地だったとは思えないほど、静かで穏やかな眺めが広がります。その静けさが、かえって白河口で散った数多くの命の重さを、深く感じさせる現地取材でした。


白河小峰城へのアクセス・地図
白河小峰城はJR東北本線・白河駅のすぐ北、城山公園として整備され、御三階櫓・前御門とも無料で見学できます(櫓内部も公開)。
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