【現地取材】天守なき名城・明石城を歩く——譜代御家門ゆえに揺れた明石藩の幕末

播磨国明石(現在の兵庫県明石市)に築かれた明石城は、天守を持たないまま本丸四隅に4棟の櫓を配した独特の姿で知られる名城です。江戸時代には松平家8万石の明石藩の居城となり、幕末には将軍家門という立場ゆえに、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府方として参戦するという苦しい選択を強いられました。実際に明石城とその周辺を歩いてきました。

史跡明石城跡の碑と奥に見える巽櫓
「史跡明石城跡」の碑。奥には現存する巽櫓が見える。
目次

明石城とは——天守を持たない四棟の櫓

元和3年(1617年)、信濃松本藩から明石藩主となった小笠原忠真は、2代将軍・徳川秀忠の命を受け、義父である本多忠政と協議のうえで築城地を選定しました。元和5年(1619年)に着工し、翌元和6年(1620年)に忠真が入城。天守台の広さから5重規模の天守を築く計画があったとされますが、実際には天守は建てられず、代わりに本丸の四隅に4棟の櫓が配される形となりました。現存するのは南側の巽櫓・坤櫓の2棟で、いずれも国の重要文化財に指定されています。北側は鴻の池(剛の池)と自然林、谷筋によって守りを固めるなど、地形を巧みに生かした縄張りが特徴です。

青空に映える明石城の櫓
石垣の上にそびえる明石城の櫓。天守はないが、堂々たる風格を漂わせている。

幕末の明石藩——譜代御家門ゆえに揺れた立場

播磨国を治めた姫路藩・池田氏が移封された後、明石城には松平(戸田)家、大久保家、松平(藤井)家、本多家と藩主家が次々と入れ替わりましたが、天和2年(1682年)に越前大野藩から松平直明が入封してようやく藩主家が定着し、松平家8万石の明石藩として明治維新を迎えます。8代藩主・斉宜は11代将軍・徳川家斉の二十五男で、将軍家門となったことで2万石の加増を受け8万石(10万石格)となりましたが、将軍家の子息を迎えたことで藩財政はいっそう逼迫しました。幕末には御家門という立場上、佐幕派の姿勢を取らざるを得ず、鳥羽・伏見の戦いでも幕府方として参戦しています。しかしほどなく新政府軍に恭順し、家名の存続を果たしました。明治4年(1871年)の廃藩置県により明石県となり、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入されています。

明石市街地を背景にした明石城の櫓
現代の明石市街地を背景にした櫓。江戸期の城郭が今も都市の中に息づいている。

現地を歩いて感じたこと

訪れた日は雲ひとつない快晴で、白漆喰の櫓が青空に映えていました。天守を持たない城でありながら、石垣の上にそびえる巽櫓・坤櫓の姿には十分すぎるほどの風格が漂っています。櫓の背後に広がる明石市街地の高層ビル群とのコントラストを目にすると、江戸時代の城郭が現代都市の中にそのまま息づいていることを実感しました。公園内の土塁沿いに整備された木製の遊歩道を歩くと、瀬戸内海が近いことを感じさせる開けた眺めが広がり、御家門という難しい立場に揺れた明石藩の歴史にも思いを馳せるひとときとなりました。

土塁沿いの木製遊歩道と遠くに見える櫓
土塁沿いに整備された木製の遊歩道。遠くに櫓を望む。

アクセス(所在地)

明石城は兵庫県明石市明石公園1-27にあります。JR・山陽電鉄の明石駅から徒歩約5分です。

まとめ

明石城は小笠原忠真が築いた、天守を持たないという独特の姿を今に伝える名城です。幕末には将軍家門という立場ゆえに佐幕方として参戦を強いられながらも、ほどなく新政府に恭順して家名を存続させた明石藩の歩みは、譜代御家門という立場の難しさをよく物語っています。現代の街並みの中にそびえる櫓の姿を、ぜひ現地でも感じてみてください。各藩の詳しい歩みは全藩情報もあわせてどうぞ。

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