清川口の戦いとは?庄内藩が新政府軍を追い返した東北戊辰戦争の最初の戦いを図解でわかりやすく—腹巻岩と御殿林

慶応4年(1868)4月24日の夜明け前。新庄から最上川を舟で下ってきた新政府軍が、庄内藩の入口・清川(いまの山形県庄内町)の対岸にそびえる岩山「腹巻岩」に上がりました。朝になると、新政府軍は川向こうの清川村へ鉄砲を撃ちかけます。東北の戊辰戦争で最初の本格的な戦い、「清川口の戦い」の始まりです。

庄内藩は午前中こそ押されたものの、午後に援軍が着くと形勢を逆転させ、夕方までに新政府軍を追い返しました。この勝利から、「戊辰戦争で一度も負けなかった」といわれる庄内藩の戦いが始まります。この記事では、清川口の戦いがなぜ起き、どう戦われたのかを、進軍図とイラスト、現地の写真で解説します。

目次

清川口の戦いとは?ひとことで言うと

奥羽鎮撫総督府の命令で庄内藩を討ちに来た新政府軍(薩摩・長州・新庄藩)を、庄内藩が最上川と立谷沢川の合流点・清川で迎え撃ち、一日で追い返した戦いです。別名を「腹巻岩の戦い」ともいいます。

日時 慶応4年4月24日(1868年5月16日)。早朝から午後3時ごろまで
場所 出羽国田川郡清川村(現在の山形県東田川郡庄内町清川)。腹巻岩・御殿林のあたり
新政府軍 奥羽鎮撫副総督・沢為量、参謀・大山格之助(薩摩藩)の率いる薩摩・長州の兵と新庄藩兵
庄内藩 総大将・松平甚三郎、士大将・水野弥兵衛の率いる清川口の守備隊。北岸には支藩の松山藩兵
兵力(おおよそ) 庄内藩の清川口守備隊 181人(午後に援軍が加わる) 対 新政府軍(人数ははっきりしない)
結果 庄内藩の勝利。新政府軍は腹巻岩を奪い返されて新庄へ引き上げた

なぜ清川で戦いが起きたのか

「朝敵」とされた庄内藩

庄内藩(酒井家)は幕末、江戸の市中取締りを任され、新徴組を率いて江戸の治安を守っていました。慶応3年(1867)12月には、江戸で騒ぎを起こしていた浪士たちの拠点・三田の薩摩藩邸を焼き討ちしています。この事件は鳥羽・伏見の戦いのきっかけの一つになり、薩摩藩にとって庄内藩は因縁の相手になりました。

新政府は庄内藩を会津藩と並ぶ「朝敵」とし、仙台に入った奥羽鎮撫総督・九条道孝に討伐を命じます。庄内藩は「徳川家に弓を引くことはできない」と嘆願しましたが、聞き入れられませんでした。

庄内藩主・酒井忠篤の肖像写真
庄内藩主・酒井忠篤(ただずみ)。このとき数えで16歳だった(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

寒河江・柴橋の年貢米をめぐって

この年の2月、庄内藩は村山郡の寒河江・柴橋にある幕府領、およそ7万4千石を預かりました。4月、鎮撫軍がこの地に向かうと、庄内藩の兵は寒河江から引き上げます。新政府軍は年貢米を押さえようとしましたが、米はすでに最上川の舟で庄内へ運ばれたあとでした。お金も米も足りない新政府にとって、これは大きな痛手でした。この一件も、庄内討伐を急がせる理由の一つになったといわれます。

最上川の船着き場で年貢米を川船に積み込む人足たち
寒河江・柴橋の年貢米は、最上川の舟運でいち早く庄内へ運ばれた(イメージ)

鎮撫軍、新庄へ

鎮撫軍は4月14日に仙台藩領の岩沼を出て、笹谷峠を越えて山形に入り、20日には天童に本陣を置きました。同じ20日、副総督の使者として清川を通ろうとした新庄藩士が、清川の御殿林で庄内藩兵に撃たれる事件が起きます。人違いによる発砲でしたが、両者の間は一気に張りつめました。

庄内藩も黙ってはいません。4月19日には、庄内への入口となる清川口・大網口・吹浦口に兵を送り、守りを固めていました。庄内軍が清川から攻め上ってくると見た副総督の沢為量は、23日に本陣を新庄へ移します。

奥羽鎮撫副総督・沢為量の肖像写真
奥羽鎮撫副総督・沢為量(ためかず)
薩摩藩士・大山格之助(綱良)の肖像写真
参謀・大山格之助(綱良)。薩摩藩士(いずれも出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

清川は庄内の玄関口

新庄から庄内へ向かうには、最上川に沿って下っていくのがいちばんの近道です。最上川が山あいを抜けて庄内平野に出るところにあるのが清川で、ここには庄内藩の関所も置かれていました。清川を抜かれれば、その先の狩川、そして城下の鶴岡までは平野が続きます。清川は、庄内藩にとって絶対に守らなければならない玄関口でした。

最上川の川岸にあった清川の関所と川船
最上川の舟と人の出入りを見張った清川の関所(イメージ)

清川は、浪士組を結成した清河八郎の生まれ故郷としても知られています(【現地取材】清河神社(清川))。

両軍の顔ぶれと兵力

新政府軍

部隊 大名家・石高 この戦いでの動き
指揮 奥羽鎮撫副総督・沢為量、参謀・大山格之助(薩摩藩)
薩摩藩 島津家
77万石
鎮撫軍の中心。腹巻岩から清川村を攻めた
長州藩 毛利家
36万9千石
薩摩藩兵とともに攻めた。初陣の新庄藩兵に戦い方を教えたという
新庄藩 戸沢家
6万8千石
3隊を出し、薩摩藩兵の道案内として腹巻岩に上った。これが初めての実戦だった

庄内藩

部隊 大名家・石高 この戦いでの動き
庄内藩 酒井家
17万石
総大将・松平甚三郎、士大将・水野弥兵衛。御殿林を中心に陣を敷き、清川口を守った。守備隊は181人で、午後に援軍が加わった
出羽松山藩 酒井家(庄内藩の支藩)
2万5千石
最上川の北岸の尾根に陣取り、川越しに新政府軍を撃った

兵力と条件を比べる

新政府軍 庄内藩
兵力 薩摩・長州の兵と新庄藩の3隊。正確な人数ははっきりしない 清川口の守備隊181人。北岸に松山藩兵、午後に援軍
武器 ミニエー銃、モルチール砲(臼砲)など。戦いのあと庄内藩に分捕られた 大砲と小銃で応戦した
地の利 川向こうの岩山・腹巻岩を先に取った。ただし最上川と立谷沢川に行く手をはばまれた 地元の地形を知りつくし、南岸と北岸の両方から挟み撃ちにできた
ねらい 清川を破り、庄内平野から鶴岡へ攻め入る 玄関口の清川で敵を食い止める

戦いの流れ

清川口の戦いの進軍図
清川口の戦いの進軍図。新庄から最上川を下った新政府軍は腹巻岩に上がったが、鶴岡・狩川から来た庄内藩の援軍に押し返され、新庄へ退いた(イメージ)

夜明け前:最上川を下って腹巻岩へ

4月24日の未明、新庄を出た新政府軍は本合海から舟で最上川を下り、清川の手前で舟を降りました。夜が明けるころには、立谷沢川をはさんで清川村と向かい合う岩山・腹巻岩を占めています。新庄藩の兵はすでに18日から探りを入れており、この日は薩摩藩兵の道案内として腹巻岩にいました。

夜明け前の最上川を舟で下る新政府軍
4月24日の夜明け前、本合海から舟で最上川を下る新政府軍(イメージ)

早朝:山菜採りの女性が見つける

その朝、山へ山菜を採りに入った清川村の女性が、見慣れない兵士の姿を見つけて「官軍がいる!」と村へ知らせたと伝わります。清川の本営では太鼓が打ち鳴らされ、兵たちは持ち場につきました。庄内藩は、かねてから敵が来ることを察知して布陣していたのです。

山菜採りの女性が岩山の上の見慣れない兵士たちに気づく
山菜採りに入った村の女性が、岩山の上の見慣れない兵に気づく(イメージ)

午前:腹巻岩からの撃ち合い

新政府軍は腹巻岩と、その近くの蘭山の上から、川向こうの御殿林に向けて激しく撃ちかけました。御殿林は、かつて庄内藩主の御殿が置かれた杉林です。総大将の松平甚三郎と士大将の水野弥兵衛は、この御殿林を中心に大砲と小銃で応戦しました。

しかし不意をつかれた庄内藩は苦戦し、村の女性や子どもたちは西の狩川へ逃げました。いまも御殿林の杉には、このときの弾の跡が数多く残るといわれます。

腹巻岩の上から川向こうの御殿林へ撃ちかける新政府軍
腹巻岩の上から、立谷沢川の向こうの御殿林へ撃ちかける新政府軍(イメージ)
御殿林の杉木立で応戦する庄内藩兵
御殿林の杉を盾に応戦する庄内藩兵(イメージ)

午後:援軍が着き、形勢が逆転

午後になると、庄内藩の援軍が清川に着きました。狩川の農民たちが山で大声を上げ、庄内の大軍が来たように見せかけたという話も伝わっています。一方、最上川の北岸の尾根には松山藩兵が陣取り、川越しに新政府軍を撃ちました。新政府軍は、南の御殿林と北の尾根から挟み撃ちにされる形になります。

最上川と立谷沢川という二つの川も、新政府軍の動きを封じました。腹巻岩の上にいる新政府軍は、川を渡って清川村に攻めこむことができなかったのです。

旗を振り大声を上げる農民たちと進む庄内藩の援軍
午後、援軍が清川へ急ぐ。農民たちも大声を上げて大軍に見せかけたと伝わる(イメージ)

午後3時ごろ:腹巻岩を奪い返す

庄内藩は奇襲も交えて攻め立て、午後3時ごろ、ついに腹巻岩の要地を奪い返しました。新政府軍は腹巻岩を捨てて退き、翌25日の夕方には新庄へ引き上げます。庄内藩は、新政府軍が残していったモルチール砲やミニエー銃、弾薬を分捕りました。

腹巻岩を駆け上がって奪い返す庄内藩兵と退く新政府軍
午後3時ごろ、腹巻岩を駆け上がって奪い返す庄内藩兵。新政府軍は大砲を残して退いた(イメージ)

両軍の死傷者

戦死 負傷
庄内藩 13人 18人
新政府軍 12人 50人あまり

※数字は現地・御殿林の案内板による。資料によって異なることがあります。

戦いのあと

庄内軍、守りから攻めへ

清川口で勝った庄内藩は、守るだけでなく打って出ます。4月25日、庄内軍は六十里越街道を通って村山地方へ進み、最上川をはさんで鎮撫軍とにらみ合いました。そして閏4月4日には天童に攻めこみ、町を焼きます(天童の戦いとは)。ただ、藩主の酒井忠篤は「朝敵」の汚名が深まるのを恐れ、兵を引くよう命じました。庄内軍は閏4月12日に領内へ戻っています。

新庄藩の寝返り、そして秋田戦争へ

清川口の敗北は、奥羽の諸藩の心も動かしました。まもなく奥羽越列藩同盟が結ばれ、鎮撫軍と一緒に清川口を攻めた新庄藩も、庄内藩に詫びて同盟に加わります。しかし7月、新庄藩はふたたび新政府側につき、怒った庄内軍に新庄城を落とされました(新庄の戦いとは)。ここから庄内藩は久保田藩(秋田藩)の領内へ攻め入り、秋田戦争が始まります(秋田戦争とは)。

庄内藩は最後まで領内に敵を入れることなく戦い抜き、9月に降伏しました(庄内藩の降伏とその後)。その始まりが、この清川口の一日の勝利でした。

25年後に訪れた正岡子規

明治26年(1893)8月9日、俳人の正岡子規が「はて知らずの記」の旅の途中で清川に立ち寄りました。御殿林が戊辰戦争の戦場だったと聞いた子規は、「蜩(ひぐらし)の二十五年も昔かな」と詠んでいます。

弾の跡が残る杉の大木を見上げる旅姿の俳人と村の老人
明治26年、清川を訪れた正岡子規(イメージ)

この戦いが示したもの(筆者の感想)

清川口の戦いは、数こそ小さいものの、その後の東北の戦争の流れを決めた一日だったと思います。鎮撫軍は「朝敵を討つ」という名目さえあれば、奥羽の諸藩は従い、庄内藩はすぐに屈すると考えていたのではないでしょうか。ところが、庄内藩は地元の地形を生かして見事に追い返しました。この敗北で鎮撫軍の威信は大きく揺らぎ、奥羽の諸藩が同盟へとまとまっていく後押しにもなりました。

もう一つ印象に残るのは、村の人々の姿です。敵を見つけて知らせた山菜採りの女性、大声を上げて援軍に見せかけた狩川の農民たち。庄内藩の強さは、武器や兵の訓練だけでなく、藩と領民の結びつきにも支えられていたのだと感じます。庄内藩は戦いのあと、酒田の町人や農民からなる兵も加えて戦い続けました。

清川は、清河八郎のふるさとでもあります。尊王攘夷を唱えて江戸に出た清河の故郷が、わずか5年後に、その尊王の旗を掲げる軍を迎え撃つ戦場になったというのも、幕末という時代の皮肉を感じさせます。

現地を歩く ― 清川口の戦いの史跡

史跡 御殿林の案内板。清川村御殿戦之図が描かれている
御殿林の案内板。右下に「清川村御殿戦之図」があり、腹巻岩の政府軍、御殿林と北岸の庄内・松山勢、南から来る狩川勢の位置がわかる(筆者撮影)
  • 御殿林(史跡)(庄内町清川):庄内藩の陣地となった杉林。案内板に戦いのあらましと「清川村御殿戦之図」があります。杉の幹には弾の跡が残るといわれます
  • 腹巻岩(庄内町清川の対岸):新政府軍が陣取った岩山。清川の側から見上げることができます
  • 官軍墳墓(庄内町清川):この戦いで亡くなった新政府軍の兵が眠る墓所
  • 正岡子規の句碑(庄内町清川):「蜩の二十五年も昔かな」の句碑
  • 清河神社・清河八郎記念館(庄内町清川):清河八郎をまつる神社。御殿林のすぐ近くです(【現地取材】清河神社(清川))
  • 清川関所跡(庄内町清川):庄内藩が最上川の舟と人の出入りを見張った関所の跡
木立に包まれた清河神社の社殿
御殿林の近くにある清河神社の社殿(筆者撮影)
清河神社の清河八郎像
清河神社に立つ清河八郎の像(筆者撮影)

あわせて読みたい

参考にした資料

  • 庄内町清川「史跡 御殿林」案内板(筆者撮影)
  • 酒田市立資料館 第179回企画展「戊辰戦争を戦った酒田町兵と農兵」解説
  • 庄内町観光ブログ「清川まち歩き ~戊辰戦争清川口の戦い~」
  • 山形県の高校生による地理研究「清川口の戦い」(山形県ホームページ掲載)
  • Wikipedia「清川口の戦い」「庄内戊辰戦争春の陣」

文・写真:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです

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