慶応4年1月。鳥羽・伏見の戦いのあと、新政府は土佐藩に「四国の朝敵を討て」と命じました。土佐藩の迅衝隊は山を越えて讃岐へ、伊予へと進みます。ところが、高松でも松山でも、一発の実弾も撃ち合うことなく城は明け渡されました。四国では戦いは起きなかったのです。
では、どこも少しも抵抗しなかったのでしょうか。じつは城の中では、戦うか降るかで激しい言い争いがあり、高松藩では家老2人が腹を切っています。この記事では、土佐藩による四国の鎮撫を、四国の藩がそれぞれどちらについたのか、なぜ戦いにならなかったのかとあわせて、進軍図とイラストで解説します。

土佐藩の四国鎮撫とは?ひとことで言うと
鳥羽・伏見で旧幕府側にいたため朝敵とされた高松藩と伊予松山藩、そして四国にあった幕府の領地を、新政府の命を受けた土佐藩が戦わずに次々と接収していったできごとです。
| 時期 | 慶応4年1月11日の追討令から、1月28日の松山城接収まで。占領は5月まで続いた |
|---|---|
| 場所 | 讃岐(高松・丸亀)、伊予(川之江・松山)。現在の香川県・愛媛県 |
| 新政府側 | 土佐藩(迅衝隊ほか)。丸亀藩・多度津藩が先鋒に加わり、伊予には長州藩・福山藩も兵を出した |
| 朝敵とされた藩 | 高松藩(松平家12万石)、伊予松山藩(松平家15万石) |
| 結果 | 戦闘はなし。1月20日に高松城、1月27〜28日に松山城が明け渡された。高松藩は家老2人が切腹し、12万両を献金。松山藩は15万両を納めることで許された |
なぜ土佐藩が四国を任されたのか
高松藩と松山藩は「朝敵」になった
高松藩は水戸徳川家の流れをくむ親藩で、四国の大名を見張る役目も負った「四国の押さえ」でした。伊予松山藩も徳川家と縁の深い松平家で、藩主の松平定昭は老中まで務めています。両藩は鳥羽・伏見の戦いで旧幕府側に立ちました(鳥羽伏見の戦いとは)。

1月10日、新政府は徳川慶喜に従った藩主たちの官位を取り上げ、高松・松山・大垣・姫路の4藩には追討の命令を出します。翌11日、土佐藩に「高松・松山の両藩と、四国にある幕府の領地を討ち、押さえよ」と命じ、錦の御旗2流を下しました。
京都へ向かうはずだった迅衝隊
このころ土佐藩は、乾退助(のちの板垣退助)が育てた洋式の部隊・迅衝隊をつくったばかりでした。もともとは京都へ上るための部隊です。1月13日に高知を出た迅衝隊は、山を越えて伊予の川之江に向かう途中で、高松・松山を討てという命令を知ります。
乾は、三か所を一度に攻めるのは無理だと判断しました。そこで、まず近くの幕府領・川之江を押さえ、そのまま讃岐の高松へ向かうことにし、松山へは高知から別の部隊を出させることにしました(板垣退助とは)。土佐の兵が讃岐に攻め入るのは、戦国時代の長宗我部元親以来、およそ300年ぶりのことでした。

四国の藩はどちらについたのか
まず、「抵抗した藩はなかったのか」を、四国のおもな藩ごとに見てみます。
| 藩 | 石高 | 立場 | この時に何をしたか |
|---|---|---|---|
| 土佐藩 | 20万2千石 | 新政府 | 追討を命じられ、高松・松山・川之江を接収した |
| 高松藩 | 12万石 | 朝敵 | 城内で三日三晩もめた末に恭順。家老2人が切腹し、戦わずに開城 |
| 伊予松山藩 | 15万石 | 朝敵 | 藩主が抗戦、前藩主が恭順を主張して対立。恭順に決まり、戦わずに開城 |
| 丸亀藩・多度津藩 | 5万1千石/1万石 | 新政府 | 土佐軍を受け入れ、高松攻めの先鋒になった |
| 徳島藩 | 25万7千石 | 中立に近い | 藩論が割れ、高松と縁が深いこともあって追討には乗り気でなかった |
| 宇和島藩 | 10万石 | 新政府寄り | 前藩主の伊達宗城は鳥羽・伏見で兵を動かさず、新政府の参謀を辞した。1月15日に松山追討の応援を命じられ、950人余を郡中まで出した |
| 大洲藩 | 6万石 | 新政府 | 早くから勤王で、鳥羽・伏見でも新政府側。土佐への協力を命じられた |
| 今治藩 | 3万5千石 | 新政府 | 本家の松山藩の謝罪書を、新政府・土佐・長州に取り次いだ |
| 幕府領(川之江など) | ― | ― | 役人が退去し、土佐藩が無血で接収した |
表のとおり、土佐軍に兵を向けた藩は一つもありません。ただ、朝敵とされた高松と松山の城の中では、戦うべきだという声もはっきり上がっていました。それはあとで見ていきます。
両軍の顔ぶれと兵力
新政府側
| 部隊 | 指揮した人物 | 兵力(おおよそ) |
|---|---|---|
| 土佐藩 迅衝隊 | 総督・深尾丹波(成質)、大隊司令・乾退助 | 約600人(高松入城の時は丸亀・多度津藩兵とあわせて約1,500人) |
| 土佐藩 松山方面 | 先陣・深尾刑部。のちに四条隆謌が合流 | 約915人 |
| 丸亀藩・多度津藩 | 丸亀藩主・京極朗徹 | 丸亀藩兵4小隊が先鋒(人数の記録は見当たらない) |
| 長州藩 | 杉孫七郎 | 約500人(整武隊3中隊・歩兵2中隊・砲隊)。30隻の船で三津浜に上陸 |
| 宇和島藩 | 隊長・桜田出雲(親興) | 950人余。土佐の応援として、松山の南の郡中(大洲藩領)に滞陣 |
| 福山藩 | 阿部主計頭 | 長州の支援として三津浜へ(人数の記録は見当たらない) |

朝敵とされた側
| 藩 | 藩主 | 藩内の様子 |
|---|---|---|
| 高松藩(12万石) | 松平頼聰 | 鳥羽・伏見から敗兵が戻り、城下は動揺。恭順か抗戦かで三日三晩の議論 |
| 伊予松山藩(15万石) | 松平定昭(前藩主は松平勝成) | 定昭は抗戦、勝成は恭順を主張。徳川家との縁を理由に戦うべきだという藩士もいた |


(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)
武器を比べる
| 土佐藩 | 丸亀藩・多度津藩 | 高松藩・松山藩 | |
|---|---|---|---|
| 装備 | 弓組を廃して洋式の銃隊と砲隊に改めた。ベルギー製のアルビニー銃300挺を注文し、スペンサー七連発銃も扱っていた | 洋式の装備はそろっていなかった | 鳥羽・伏見に兵を出した藩で、兵も武器もあった。ただし鳥羽・伏見の敗戦で兵の気持ちはくじけていた |
| 見通し | 少ない土佐兵と、洋式でない丸亀・多度津の兵だけでは、高松城を力で落とすのは難しいと見られていた | ||
つまり、もし高松藩が城に立てこもっていたら、土佐軍は苦しい戦いになったはずです。戦いにならなかったのは、土佐が強かったからというより、高松・松山が戦わないことを選んだからでした。
鎮撫の流れ

1月16〜18日:川之江を無血で押さえる
1月16日、迅衝隊は伊予の川之江に着きました。川之江は幕府の領地で、松山藩が支配を預かっていましたが、役人は退去し、土佐藩は戦わずにこれを押さえて「土佐領」とする高札を立てます。18日には海援隊の長岡謙吉らが上方の情勢と錦の御旗の到着を伝え、乾が高松へ向かうことを強く主張して、方針が決まりました。
1月19日:丸亀藩が土佐軍を迎える
土佐軍は鳥坂峠を越えて讃岐に入り、深尾と乾の使いが丸亀藩を説きました。丸亀藩主の京極朗徹は新政府に従うことを決め、19日、土佐軍を城下に迎えます。丸亀藩と支藩の多度津藩は、高松攻めの先鋒になりました。
1月18日:高松藩、家老2人が切腹
同じころ高松では、鳥羽・伏見から敗兵が帰り、朝敵にされたという知らせに城下が揺れていました。藩の中では、恭順か抗戦かで三日三晩の議論が続きます。そこへ、高松藩が後ろ盾になっていた京都の興正寺から、責任者を処分して新政府に謝るよう勧める書状が届きました。
1月18日、鳥羽・伏見で高松藩兵を率いた総督の小夫兵庫と、執政の小河又右衛門が、責任を負って切腹します。2人の首は新政府側に届けられました。19日、藩主の松平頼聰は城を出て、城下の浄願寺で謹慎に入りました。
1月20日:高松城、無血開城

1月20日、土佐軍は丸亀藩兵4小隊を先頭に、陸路の3小隊と海路の5小隊に分かれて丸亀を出ました。海路の乾の隊は正午ごろ高松の西浜に上がり、陸路の隊も午後2時ごろ城下に着いて真行寺に陣を置きます。
高松藩の家老が真行寺を訪れて降伏の嘆願書を出し、午後4時ごろ、総勢約1,500人が錦の御旗を先頭に高松城の大手門へ進みました。土佐兵は空砲を撃ち、空へ向けて銃を放って威圧しながら城に入ります。表書院で勅命が伝えられ、高松藩は城地と人民を差し出すと誓う書面を出しました。城下には「当分土佐預り地」の高札が立てられます。
1月22〜28日:松山城の開城
伊予松山藩の藩主・松平定昭は、鳥羽・伏見のあと1月10日ごろ国元に戻っていました。土佐藩は大目付の小笠原唯八らを問罪の使いとして送り、23日に松山に着きます。
松山城の中では、抗戦を説く定昭と、恭順を説く前藩主の勝成が対立していました。藩は学者の三上是庵を招いて意見を聞き、是庵は「家族や城下の人々を守るなら、戦うべきではない」と恭順を説きます。25日、定昭と勝成は城を出て常信寺で謹慎し、26日の夜、藩は恭順で一決しました。
27日、土佐の先陣(深尾刑部)が立花口に着いて城に入り、28日の早朝には松山城の接収を終えます。土佐兵は立花橋と城の東門のあたりで一斉射撃をして、城下を威圧しました。
1月28日:長州藩、ひと足遅れて三津浜へ
28日の午後、長州藩の杉孫七郎が約500人を率いて松山の外港・三津浜に上陸しました。松山藩は2年前の長州征討で先鋒を務め、周防大島を占領したときに住民に乱暴をはたらいたとされ、長州には恨みがありました。しかし、要所はすでに土佐藩が押さえていて、長州は手を出せません。杉らは2月1日に藩主父子の謹慎ぶりを確かめ、3月3日には全軍を引き揚げました。
このほか、宇和島藩も1月15日に松山追討の応援を命じられ、27日に隊長の桜田出雲が率いる950人余が陸路で宇和島を出ました。2月1日に松山の南にある郡中(大洲藩領)に着きましたが、松山藩はすでに恭順していたため、5日に陣を払い、8日に宇和島へ帰っています。宇和島藩兵が松山城下に入ることはありませんでした。福山藩も長州の応援として2月7日に三津浜へ着き、翌8日に長州兵とともに城を見分しています。
松山藩がすぐに開城を決めた背景には、長州に先に入られるより、土佐に預けたほうがよいという、土佐・松山両藩の計算もあったといわれます。
本当に抵抗はなかったのか
城を明け渡すまでの間、高松・松山の両藩には、戦うべきだという声がたしかにありました。
- 高松藩:三日三晩、恭順か抗戦かで議論が続いた。最後は家老2人の命と引き換えに恭順を選んだ
- 松山藩:藩主の定昭自身が抗戦論だった。徳川家との縁を理由に薩摩・長州に抵抗すべきだという藩士もいて、近侍の戸塚徹也らは定昭を奉じて事を起こそうとした。一部の藩士は会津・桑名の藩士と行動をともにし、長州に反撃しようと考えていた
それでも実際に兵を動かした藩はありませんでした。藩主が城を出て謹慎し、城を明け渡すという道を、両藩とも自分たちで選んだのです。
占領のあと
| 高松藩 | 伊予松山藩 | |
|---|---|---|
| 占領の期間 | 1月20日〜2月21日(約1か月) | 1月28日〜5月28日(約4か月) |
| 藩主の処分 | 頼聰は京都で謹慎。4月15日に許され、官位も戻された | 定昭は蟄居。前藩主の勝成がふたたび藩主になった |
| 献金 | 軍資金12万両 | 軍資金15万両(まず5万両を納め、残りは猶予を願った) |
| その他 | 家老2人が切腹 | 家老ら重臣は蟄居・更迭。のちに「松平」の姓を返上し、もとの「久松」に戻すよう命じられた |
土佐藩は松山で、町の治安を守るための細かい布告を出し、軍の掟を破った自藩の兵4人を処刑しています。川之江など伊予・讃岐の幕府領は、そのまま土佐藩が「川之江政庁」として治めました。
こうして、親藩として四国の押さえを任されていた高松藩は力を失い、代わって土佐藩が四国の維新の中心に立つことになりました。迅衝隊はこのあと東山道へ向かい、甲州勝沼で近藤勇の鎮撫隊を破ることになります(甲州勝沼の戦いとは)。
この鎮撫が示したもの

四国では一発の実弾も撃ち合われませんでした。けれども、それは血が流れなかったということではありません。高松藩では、鳥羽・伏見で兵を率いた小夫兵庫と、執政の小河又右衛門が腹を切りました。藩を守るために、責任を2人に負わせたのです。
なぜ四国の藩は戦わなかったのか。いちばん大きいのは、主君にあたる徳川慶喜が、大坂から江戸へ船で逃げ帰っていたことだと思います。親藩が命をかけて守るべき相手が、もう戦っていなかったのです。そして四国は海に囲まれていて、援軍が来る見こみもありませんでした。
同じ年の関東では、撒兵隊や遊撃隊のように、主君が降ってからも戦い続けた旧幕府の兵がいました(五井の戦いとは)。それにくらべると、四国の親藩は、早いうちに戦うのをやめ、城下を戦火から守るほうを選んだといえます。三上是庵の「家族や城下の人々を守るなら戦うべきではない」という言葉は、その選択をよくあらわしていると思います。
現地を歩く ― 四国鎮撫の史跡
- 高松城跡(玉藻公園)(香川県高松市):土佐軍が錦の御旗を先頭に入った城です
- 真行寺(高松市):高松入城の日に土佐軍が本陣を置いた寺です
- 松山城(愛媛県松山市):土佐藩が接収し、約4か月にわたって軍政を敷いた城です
- 常信寺(松山市):藩主の定昭と前藩主の勝成が謹慎した寺です
- 三津浜(松山市):長州藩の兵が上陸した、松山の外港です
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- 山陰道鎮撫総督とは?西園寺公望の83日、戦わずに従った山陰の諸藩と松江藩の「四ヶ条」
- 板垣退助とは何をした人物か
- 鳥羽伏見の戦いとは
- 甲州勝沼の戦いとは
- 四国の藩一覧(幕末)
- 高松藩/伊予松山藩/丸亀藩/土佐藩
参考にした資料
- 『愛媛県史 近世 下』(データベース「えひめの記憶」)。宇和島藩の出兵は同データベースの「宇和島藩の戊辰戦争」の項による
- ビジネス香川「高松に進軍してきた板垣退助」
- 瀬戸の島から「朝敵となった高松藩への討伐軍を率いたのは板垣退助だった」(宮地美彦の論文をもとにした記事)
- Wikipedia「高松藩」「伊予松山藩」「迅衝隊」
文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです


