天狗党と諸生党の抗争とは?水戸藩を二つに割った5年—家族まで斬った報復、弘道館の戦い、松山戦争、市川三左衛門の最期まで

幕末の水戸藩では、同じ藩の武士どうしが、十年近くにわたって殺し合いを続けました。尊王攘夷を掲げた天狗党と、藩の保守派を中心とする諸生党。一方が力を握ると、もう一方の家族まで捕らえて斬る。立場が逆転すると、今度はやり返す。その最後の決戦の舞台になったのが、徳川斉昭が建てた藩校・弘道館でした。

この記事では、二つの派がどう生まれ、元治元年の天狗党の挙兵、家族にまで及んだ報復、慶応4年の立場の逆転、そして明治元年の弘道館の戦いと松山戦争、諸生党を率いた市川三左衛門の最期までを、筆者が水戸で撮った写真とともにたどります。

目次

天狗党と諸生党の抗争とは?ひとことで言うと

徳川斉昭の藩政改革をきっかけに、水戸藩が改革派(のちの天狗党)と保守派(のちの諸生党)に割れ、元治元年(1864年)から明治2年(1869年)まで、藩の実権を奪い合って戦い続けた内紛です。

期間 元治元年(1864年)3月の筑波山挙兵から、明治2年(1869年)の市川三左衛門の処刑まで。対立の始まりは天保年間の藩政改革にさかのぼる
天狗党 藤田東湖らの改革派の流れをくむ尊王攘夷の激派。藤田小四郎、武田耕雲斎らが中心
諸生党 改革に反対した門閥派の流れをくむ一派。弘道館の諸生(学生)が多く加わったことから、こう呼ばれた。中心は市川三左衛門(弘美)
主な戦い 筑波山挙兵と那珂湊の戦い(1864年)、弘道館の戦い(1868年10月)、松山戦争(同月)
結末 天狗党は敦賀で三百五十人余りが斬られ、諸生党は弘道館と松山で敗れて壊滅。双方とも家族まで処刑する報復を繰り返した
残したもの 水戸藩は有為の人材を失い、明治の新政府に要人をほとんど送り出せなかったといわれる

二つの派はどう生まれたのか

斉昭の改革と、改革派・門閥派

徳川斉昭公像
徳川斉昭公像。文政12年に藩主となり、藩政改革を進めた

文政12年(1829年)に水戸藩主となった徳川斉昭は、藤田東湖や会沢正志斎ら、身分の低い家から出た学者たちの支えを受けて藩政の改革を始めました。藩校・弘道館の設立もその柱の一つです。斉昭については柄本明さんが演じる徳川斉昭とは何をした人物かをご覧ください。

改革は、昔からの重臣たちの反発を招きます。こうして藩の中に、斉昭を支える改革派と、それに反対する門閥派の対立が生まれました。門閥派の中心とされた結城寅寿(朝道)は、のちに失脚して幽閉され、安政3年(1856年)に処刑されています。この時点で、すでに藩内の対立は命のやりとりになっていました。

藤田東湖像
藤田東湖像。斉昭を助けて改革を進め、「弘道館記」の草案を書いた。安政の大地震で亡くなり、その死が改革派の分裂を早めたともいわれる

密勅の返納をめぐって、改革派も割れた

安政5年(1858年)、朝廷から水戸藩に直接、幕府の政治を改めるよう求める勅書が下されました。戊午の密勅です。幕府はこれを返すよう水戸藩に迫り、改革派の中で意見が割れます。すぐに返すべきだとする会沢正志斎らの鎮派と、返納を拒む激派です。激派の一部はやがて脱藩し、万延元年(1860年)の桜田門外の変を起こしました(桜田門外の変とは)。

この激派の流れが天狗党になります。「天狗」はもともと、反対派が改革派の武士を「高慢で人の言うことを聞かない」とあざけって付けた呼び名でした。一方、改革に反対した門閥派の流れに、弘道館の諸生(学生)たちが加わって諸生党が生まれます。

元治元年(1864年)—天狗党の挙兵と諸生党の台頭

元治元年3月27日、藤田東湖の子・藤田小四郎ら62人が、攘夷の実行を求めて筑波山で挙兵しました。参加者はふくれ上がり、最も多いときで千人を超えたといわれます。筑波山の現地のようすは【現地取材】小田城跡から筑波山へで紹介しています。

筑波山神社境内の藤田小四郎之像
筑波山神社の境内に立つ藤田小四郎の像。藤田東湖の子で、数え23歳でこの山に兵を挙げた

これを好機と見たのが、反対派の市川三左衛門らです。市川らは約600人を率いて江戸の水戸藩邸に乗り込み、藩の実権を握りました。幕府が天狗党の追討を命じると、市川らは弘道館の諸生を中心に兵を組んで出陣します。下妻の多宝院で天狗党の夜襲を受けて敗れたものの、水戸に戻って城を押さえ、天狗党に加わった者の家族の屋敷に火を放ち、残っていた者を牢に入れました。

那珂湊の戦い—約2か月続いた藩内の戦争

事態を収めるため、水戸藩主・徳川慶篤の名代として、支藩の宍戸藩主・松平頼徳が江戸から水戸へ向かいました。8月4日に江戸を出た一行は、執政の榊原新左衛門ら約700人。途中の小金で武田耕雲斎や山国兵部らが加わり、一行は千人から三千人ほどにふくらみます。この一行は「大発勢(たいはつぜい)」と呼ばれました。

ところが、水戸城を押さえていた市川三左衛門ら諸生党は、藩主の名代である頼徳さえ城に入れませんでした。行き場を失った頼徳の一行は、水戸の東、那珂川の河口にある港町・那珂湊に移ります。そこへ藤田小四郎ら筑波山の天狗党約500人も応援に駆けつけ、さらに那珂湊・小川・潮来の郷校に集まっていた郷士や神官、農民ら千人ほどが加わりました。こうして大発勢と天狗党が那珂湊に集まり、水戸城の諸生党と向き合う形になります。

戦いの流れ

日付(元治元年) できごと
7月8日 幕府、若年寄で相良藩主の田沼意尊を、天狗党の追討軍の総括に任じる
8月4日 松平頼徳、榊原新左衛門ら約700人を率いて江戸を出発。途中で武田耕雲斎らが合流
8月10日ごろ 水戸城下に着くが、諸生党が入城を拒む。頼徳らは那珂湊へ移る
8月16日 那珂湊での攻防が始まる。天狗党の長谷川庄七が一番槍で突破口を開くが、撃たれて最初の戦死者となったと伝わる
8月20日 頼徳が水戸城下の神勢館でふたたび入城を求めるが、拒まれる
8月22日 大発勢・天狗党と諸生党が全面衝突
8月25日 田沼意尊の追討軍の主力が笠間に着き、諸生党の側で戦いに加わる
8月29日 大発勢、水戸城下から那珂湊へ退く。以後、那珂湊をめぐる攻防に
9月9日 田彦宿で宇都宮藩兵が天狗党に敗れ、藩士9人と従者2人が戦死
10月5日 「幕府に真意を訴える場を与える」として誘い出された頼徳が、切腹させられる。数え34歳
10月 那珂湊の西の部田野原(へたのはら)一帯で大きな合戦が三度。9日・10日の戦いでは福島藩兵16人が戦死
10月23日 榊原新左衛門ら大発勢の千人余りが投降。降伏に反対した武田耕雲斎らは天狗党とともに那珂湊を脱し、北の大子へ向かう

両軍の顔ぶれと兵力

大発勢・天狗党 諸生党・幕府追討軍
中心人物 松平頼徳、榊原新左衛門、武田耕雲斎、山国兵部、藤田小四郎、田丸稲之衛門 市川三左衛門(諸生党)、田沼意尊(追討軍総括)
兵力 大発勢は約700人で出発し、合流を重ねて千〜三千人ほどに。天狗党約500人、郷校の郷士・農民ら約千人 諸生党に加え、幕府の歩兵と、宇都宮・福島・高崎・笠間などの諸藩兵。正確な総数ははっきりしない
拠点 那珂湊とその周辺 水戸城、笠間
海から — 幕府の軍艦・黒龍丸が沖から艦砲射撃を加えた

注目したいのは、大発勢の性格です。頼徳はもともと、藩主の名代として争いを鎮めに来た立場でした。それが城に入れてもらえず、那珂湊で天狗党と一緒になったことで、幕府からは天狗党の仲間と見なされ、追討される側に回ってしまいます。調停役が、いつの間にか「賊」にされていたのです。

焼けた港町と反射炉

煙の上がる那珂湊の町と高台の反射炉、沖の軍艦を見つめる武士たち(イメージ)
戦火に包まれる那珂湊(イメージ)。高台には斉昭が築かせた反射炉の煙突、沖には幕府の軍艦が見える

約2か月の戦いで、那珂湊の町は民家や寺社の大半を失いました。水戸藩の歴史を伝える建物も、この戦火で次々に失われます。

  • 夤賓閣(いんぴんかく):徳川光圀が元禄11年(1698年)に建てた那珂湊の別邸。28の部屋をもつ御殿でしたが、この戦いで焼失しました。跡地はいまの湊公園です
  • 那珂湊反射炉:斉昭が大砲を造るために築かせた反射炉。安政年間に二基が完成し、大砲を造っていましたが、戦いで煙突が大きく壊れ、水車場も焼けました。斉昭が国を守るために造らせた施設が、水戸の人どうしの戦いで壊れたことになります
  • 文武館:安政4年(1857年)に開かれた那珂湊の学校も、この戦いで壊されました

頼徳の切腹と、大発勢の降伏

戦いが長引くなか、頼徳は「幕府に真意を訴える機会を与える」と誘われて那珂湊を出たところを拘束され、10月5日、切腹を命じられました。数え34歳。宍戸藩は取りつぶされ、父の頼位も他藩に預けられています。鎮めに来た大名が、責任を一身に負わされて命を絶つという結末でした。

10月23日、榊原新左衛門ら大発勢の千人余りは、ついに投降します。榊原ら43人は諸藩に預けられ、数か月後に切腹や斬首に処されました。一方、降伏を拒んだ武田耕雲斎は、天狗党とともに那珂湊を脱出し、北の大子に集まります。その数は千人余り。ここから、京都の一橋慶喜を目指す西上が始まりました。

那珂湊の戦いの跡

  • 那珂湊反射炉跡(ひたちなか市栄町、あづまが丘公園):県指定史跡。昭和12年(1937年)に実物大の模型が建てられた
  • 夤賓閣跡(ひたちなか市湊中央、湊公園):市指定史跡
  • 首塚(忠勇戦死之墓)(ひたちなか市鶴代):追討軍の戦死者を葬った塚。慶応2年(1866年)に石碑が建てられた
  • 福島藩士の墓・宇都宮藩士の墓(ひたちなか市):追討軍として戦死した藩士たちの墓

千人の西上と、敦賀の三百五十人

残った天狗党の約千人は、武田耕雲斎を総大将に、京都の一橋慶喜に訴えるため西へ向かいます。しかし慶喜は追討軍の側にいました。12月、越前の新保で加賀藩に投降した天狗党の人々は、翌年2月から敦賀で次々に斬られます。その数は三百五十人余り(352人とも353人ともいわれます)。この西上と処刑のくわしい経緯は天狗党の乱とは何だったのかにまとめています。

太平山謙信平の天狗党鎮魂碑
栃木県の太平山・謙信平に立つ水戸天狗党の鎮魂碑。挙兵した天狗党は一時ここにこもった

家族まで斬った報復

敦賀で斬られた天狗党の首は水戸に送られ、慶応元年(1865年)3月、城下を引き回されました。そして同じ月の25日、諸生党が握る水戸藩は、武田耕雲斎の家族を処刑します。

斬られたのは、耕雲斎の妻(40歳)、9歳と3歳の幼い息子、そして孫たちでした。長男の妻は牢の中で食を断って亡くなっています。天狗党に加わった者の家族は、女性や幼い子どもも含めて牢に入れられ、命を落とした人も少なくありませんでした。水戸の赤沼牢の跡には、処刑された家族を慰める碑が立っています。

妙雲寺にある武田耕雲斎の墓
武田耕雲斎の墓(水戸市・妙雲寺)。水戸市指定史跡

一つの藩の中で、昨日までの同僚の妻子を斬る——ここまで来ると、対立はもう政治の争いではなく、家と家との憎しみの連鎖でした。

慶応4年(1868年)—立場の逆転

流れが変わったのは、戊辰戦争の年です。京都の本圀寺に駐屯していた水戸藩の尊攘派(本圀寺勢)は、朝廷から諸生党を討つ勅書を得て水戸に戻ってきました。新しい政府の「お墨付き」を得たのは、今度は天狗党の側でした。

市川三左衛門らは、慶応4年4月、約500人を率いて水戸を脱出します。諸生党は旧幕府方として会津に入り、越後や会津で新政府軍と戦いました。一方、水戸では敦賀から生きて戻った武田耕雲斎の孫・武田金次郎らが実権を握り、今度は諸生党とその家族への報復が始まります。諸生党の重臣の中には、幼い息子二人まで斬られた人もいました。

弘道館の戦い—藩校を挟んで、水戸の武士が撃ち合った

明治元年(1868年)9月、会津藩が降伏すると、行き場を失った市川ら諸生党は水戸へ引き返します。9月29日に城下に着いたものの城には入れず、10月1日、城のすぐ隣にある藩校・弘道館を占拠しました。

水戸城に立てこもる天狗党側(城方)と、弘道館に入った諸生党とが、わずかな距離を挟んで銃と大砲で撃ち合います。戦いは2日にわたって続き、10月2日の夜、諸生党は水戸を脱出しました。

弘道館の門を挟んで撃ち合う水戸藩士たち(イメージ)
弘道館の門を挟んで、城方と諸生党が撃ち合った(イメージ)

兵力と犠牲を比べる

諸生党(市川三左衛門) 城方(天狗党側)
拠点 弘道館 水戸城
兵力 500人とも1,000人ともいわれる。会津・越後を転戦してきた兵 家老・山野辺義芸が周辺の兵を城に集めた。人数ははっきりしない
戦死者 約90人。市川はこの戦いで息子二人を失った 87人(鮎沢伊太夫らを含む)
結果 10月2日夜に脱出し、南へ逃れる 城を守りきる
旧弘道館の内部
弘道館の内部。至善堂には、のちに徳川慶喜が謹慎した部屋が残る

この戦いで、弘道館の文館・武館・医学館など多くの建物が焼けました。焼け残ったのは正門・正庁・至善堂だけで、いまはいずれも国の重要文化財です。正門の柱などには、このときの弾痕が残っていると伝えられています。斉昭が「文武一致」を掲げて建てた藩校で、その教え子たちが撃ち合ったことになります。弘道館と水戸城の現地のようすは【現地取材】水戸城と弘道館を歩くでも紹介しています。

旧弘道館の正門と石柱
焼け残った弘道館の正門(重要文化財)。この門の柱に、弘道館の戦いの弾痕が残ると伝えられる

松山戦争—諸生党の最後

水戸を逃れた諸生党は南へ逃れ、10月4日の夜、銚子に近い松岸に船で上陸しました。このとき210人。そのうち97人が降伏し、残る113人がさらに逃げ続けます。

10月6日の朝、下総の八日市場(いまの千葉県匝瑳市)の福善寺に着いた市川は、ここで解散を告げました。しかし数十人が「戦う」と言って残ります。市川は町を戦火に巻き込まないよう、町はずれの松山の台地に陣を張ったと伝えられます。

松山の台地に最後の陣を構える諸生党と、迫る追討の軍勢(イメージ)
松山の台地に最後の陣を構える諸生党(イメージ)

追ってきた約1,000人の兵は福善寺を焼き、総攻撃をかけました。諸生党は2時間あまり抵抗しましたが、午後2時ごろ壊滅します。討ち死にしたのは三十数人でした。地元の人々は戦場の跡に塚を築いて弔い、「脱走塚」「逃走塚」などと呼ばれて伝えられてきました。

市川三左衛門の最期—逆さ磔

市川三左衛門は松山の戦場を逃れ、東京の寺や知人の家に潜んでいましたが、明治2年(1869年)に捕らえられて水戸に送られました。同年4月(3日とする資料があります)、水戸郊外の長岡原で、逆さ磔という極刑に処されています。

天狗党の挙兵からおよそ5年。市川の死をもって、水戸藩の抗争はようやく終わりました。

箱館まで行っていたら—市川の最期を考える

市川が処刑された明治2年4月は、まだ箱館で榎本武揚らが新政府軍と戦っていたころです。五稜郭が開城するのは翌5月のことでした。箱館で降伏した榎本らは東京で獄につながれたものの、明治5年(1872年)には赦され、のちに新政府に仕えています。会津が降伏したあと、もし市川が北へ渡り、箱館で新政府軍に降っていれば、新政府の捕虜として扱われ、命は助かったかもしれません。ただし、これは推測です。

市川を裁いたのは、新政府ではありませんでした。天狗党の流れをくむ人々が実権を握った水戸藩そのものです。新政府が旧幕府方の多くを赦していく一方で、水戸藩の中の恨みは、それとはまったく別の論理で動いていました。故郷に戻ったことが、市川にとって最悪の選択になったともいえます。

この抗争が示したもの

幕末の水戸藩は、尊王攘夷の思想を全国に広めた藩でした。吉田松陰も、若いころ水戸に一か月滞在して学んでいます。ところが、その水戸藩自身は、藩の中の争いで力を使い果たしました。

水戸市がまとめた資料は、足かけ5年に及ぶ争いの結果、有為な人材は水戸からいなくなったとさえいわれる、と記しています。新しい政府で薩摩・長州・土佐・肥前の出身者が要職を占めるなか、水戸藩の出身者が重要な地位に就くことはほとんどありませんでした。

どちらが正しかったのか、という問いには簡単に答えられません。天狗党は「尊王攘夷」を、諸生党は「藩と幕府の秩序」を、それぞれの正義として戦いました。ただ、家族まで斬り合う報復の連鎖が、藩そのものを焼き尽くしたことだけは確かです。

現地を歩く—水戸の抗争の跡

  • 旧弘道館(水戸市三の丸):弘道館の戦いの舞台。正門・正庁・至善堂が残る
  • 水戸城跡(水戸市三の丸):城方が立てこもった城。大手門と二の丸角櫓が復元されている
  • 妙雲寺(水戸市):武田耕雲斎の墓(市指定史跡)
  • 回天神社と回天館(水戸市松本町):天狗党など水戸藩の殉難者1,785人をまつる。回天館は、敦賀で天狗党が押し込められた鰊蔵の一棟を移したもの
  • 常磐共有墓地(水戸市):藤田東湖や桜田門外の変の志士の墓が並ぶ(【現地取材】水戸・常磐共有墓地を歩く)
  • 祇園寺(水戸市):市川三左衛門と朝比奈弥太郎の墓、諸生党側の慰霊碑がある
  • 赤沼牢屋敷跡(水戸市):天狗党の家族が捕らえられた牢の跡
  • 松山の戦場跡(千葉県匝瑳市):松山戦争の地
水戸城二の丸角櫓
復元された水戸城の二の丸角櫓。弘道館の戦いで城方が立てこもった水戸城の一部

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参考にした資料

水戸市『天狗党挙兵150年』展示資料、茨城県立歴史館「天狗党事件」および『歴史館ニュース』117号、旧弘道館保存活用計画概要(茨城県)、水戸観光コンベンション協会「回天神社」「回天館」、匝瑳市「指定・登録文化財一覧表」、福井県・敦賀市の天狗党関係資料、コトバンク「天狗党の乱」「水戸藩」「弘道館」、Wikipedia「天狗党の乱」「諸生党」「弘道館戦争」「松山戦争」「市川弘美」「武田耕雲斎」(日付と人数の確認に使用)。

文・写真:佐藤秀信

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