慶応4年(1868)5月から7月にかけて、越後の長岡藩は新政府軍と3か月にわたって戦いました。7万4千石の小さな藩が、家老の河井継之助のもとでガトリング砲などの最新兵器をそろえ、一度は奪われた長岡城を、沼地を夜通し渡る奇襲で取り返します。戊辰戦争のなかでも、いちばんの激戦のひとつに数えられる戦いです。
この記事では、長岡戦争(北越戦争)を、河井継之助がめざした「武装中立」と小千谷談判の決裂、榎峠・朝日山の戦い、長岡城の落城と八丁沖を渡る奪還作戦、そして河井の最期の順に、進軍図を使ってわかりやすく解説します。飯山戦争で敗れた衝鋒隊も、この戦いに加わっています。
長岡戦争とは?ひとことで言うと
新政府軍に従うことも、奥羽越列藩同盟に加わることも選ばず、中立を守ろうとした長岡藩が、小千谷談判の決裂をきっかけに新政府軍と戦った戦いです。長岡藩は同盟軍とともによく戦い、落とされた長岡城を一度は取り返しました。しかし新潟の港を海から押さえられ、城はふたたび落ち、負傷した河井継之助も会津へ向かう途中で亡くなりました。
| 期間 | 慶応4年5月2日〜8月(1868年6月21日〜9月)。長岡城の落城は5月19日と7月29日 |
|---|---|
| 場所 | 越後国 長岡(現在の新潟県長岡市)と小千谷・見附・新潟の周辺 |
| 新政府側 | 長州藩・薩摩藩・加賀藩・高田藩・尾張藩など北陸道の諸藩。参謀は山県有朋・黒田清隆 |
| 同盟側 | 長岡藩(軍事総督・河井継之助)。会津藩・桑名藩・米沢藩・衝鋒隊なども加わる |
| 結果 | 新政府軍の勝利。長岡城は二度落ち、河井継之助は8月16日に会津で死去。長岡藩は7万4千石から2万4千石に減らされる |
長岡藩はなぜ戦うことになったのか
小さな藩を立て直した河井継之助
長岡藩は牧野家7万4千石の譜代の藩です。幕末にこの藩を率いたのが、家老の河井継之助でした。河井は江戸や西国で学んだのち、藩の財政をきびしく立て直し、たまった借金を返したうえで蓄えまでつくりました。そのお金で進めたのが、軍備の洋式化です。
ガトリング砲と洋式の軍隊
河井は藩兵にフランス式の調練を受けさせ、横浜の外国商人から最新の兵器を買い入れました。なかでも名高いのが、手回しで弾を次々に撃ち出すガトリング砲です。当時日本にあった数門のうちの2門を長岡藩が持っていたといわれます。歩兵にはエンフィールド銃などの洋式の銃が配られ、長岡藩は小さな藩ながら、東北・北陸でも指折りの洋式軍隊を持つ藩になっていました。
武装中立と小千谷談判の決裂
河井がめざしたのは、新政府にも旧幕府方にもつかない「武装中立」でした。強い軍備を持つことで、どちらからも手出しされない立場を保ち、両者のあいだを取り持とうと考えたのです。会津藩から同盟に加わるよう求められても、河井は応じませんでした。
5月2日、河井は小千谷の慈眼寺で、新政府軍の軍監・岩村精一郎(土佐藩)と会います。河井は、長岡藩が会津藩を説得するので時間がほしいと願い出ましたが、岩村は聞き入れず、会談はわずかな時間で終わりました。この小千谷談判の決裂によって、長岡藩は新政府軍と戦う道を選び、奥羽越列藩同盟に加わります。

両軍の兵力と軍備
北越の戦場全体で、新政府軍はおよそ2万人、長岡藩をふくむ同盟軍はおよそ8千人だったといわれます。兵の数では新政府軍が2倍以上でした。
| 長岡藩・同盟軍 | 新政府軍 |
|---|---|
| 兵力はおよそ8千人(同盟軍全体) | 兵力はおよそ2万人 |
| 長岡藩(7万4千石)が中心。会津藩・桑名藩・米沢藩・衝鋒隊などが加わる | 長州藩・薩摩藩・加賀藩・高田藩・尾張藩など北陸道の諸藩 |
| 軍事総督・河井継之助が全体を指揮 | 参謀の山県有朋(長州)と黒田清隆(薩摩)が指揮 |
| フランス式の調練を受けた洋式の藩兵。ガトリング砲・アームストロング砲・洋式の銃をそろえる | 洋式の歩兵・砲兵。兵の数と補給で上回る |
| 土地にくわしく、領民の協力も得やすい | 7月には軍艦で海から新潟へ上陸し、背後をつく |
戦いの流れ

榎峠・朝日山の戦い(5月10日〜)
談判が決裂すると、長岡藩はすぐに動きました。5月10日、信濃川沿いの三国街道の難所・榎峠を守る新政府軍を攻めて奪い取り、続いて榎峠を見下ろす朝日山にも陣を築きます。朝日山の山頂を守ったのは、立見鑑三郎の率いる桑名藩兵と長岡藩兵でした。
5月13日、新政府軍は濃い霧にまぎれて朝日山を攻めましたが、守りは崩れず、攻撃を指揮した長州藩の時山直八(奇兵隊)が戦死します。時山は松下村塾に学んだ山県有朋の盟友でした。その後、両軍は山の上と下で撃ち合いを続け、戦線は動かなくなりました。

信濃川を渡られ、長岡城が落ちる(5月19日)
朝日山で行き詰まった新政府軍は、戦場を変えました。5月19日の早朝、梅雨で水かさの増した信濃川を、濃い霧にまぎれて舟で渡り、長岡城の西の中島に上陸したのです。長岡藩の主力は榎峠・朝日山の守りに出ていて、城下はほとんど空でした。新政府軍は町に火を放ちながら城へ迫り、長岡城はわずか半日で落ちました。藩兵は東の栃尾へ退きます。

今町を取り返し、にらみ合いへ
それでも長岡藩はくじけませんでした。同盟軍とともに態勢を立て直し、6月2日には今町(見附市)を取り返します。長岡城の北東に広がる八丁沖という沼地をはさんで、北の同盟軍と南の新政府軍がにらみ合う形になり、戦いは2か月近く続きました。
八丁沖を渡る奇襲(7月24日〜25日)

八丁沖は南北約5km、東西約3kmにわたる沼地で、葦が生い茂り、魔物がすむとまでいわれた場所でした。新政府軍は、ここを人が渡れるとは考えておらず、守りを置いていませんでした。河井はそこに目をつけます。
道案内を務めたのは、藩士の鬼頭熊次郎でした。暮らしが苦しく、八丁沖で魚をとって生活していた熊次郎は、沼の浅瀬や渡れる道筋を知りつくしていたのです。7月24日の夜、河井は約700人の長岡藩兵を率い、一列になって息をひそめ、八丁沖を渡り始めました。

25日の未明、長岡藩兵は城の北東の富島に上陸し、新政府軍の陣地を突破して長岡城へなだれ込みます。不意をつかれた新政府軍の本営は大混乱となり、参謀の山県有朋は城を捨てて信濃川の向こうへ退きました。こうして長岡城は、長岡藩の手に戻ります。一度落ちた城を取り返すのは、戊辰戦争でもめずらしいことでした。新政府軍もこの25日に総攻撃をかけるつもりでしたが、その前の晩に先手を打たれたのです。
ただ、代償も大きいものでした。案内役の鬼頭熊次郎は、発砲を禁じた命令を守ったまま、上陸後に撃たれて亡くなりました。そして25日の戦いのなかで、河井継之助も左の膝に銃弾を受けてしまいます。
新潟上陸と、ふたたびの落城(7月29日)
同じ7月25日、新政府軍は軍艦で海から新潟の北の太夫浜に上陸しました。新発田藩は新政府軍に寝返り、7月29日には同盟軍が武器を運び込む大事な港だった新潟町が押さえられます。背後を断たれた同盟軍は持ちこたえられず、同じ7月29日、長岡城はふたたび新政府軍の手に落ちました。
八十里越と河井継之助の最期
長岡藩兵は、歩けなくなった河井を担架に乗せ、会津との国境の八十里越を越えて会津へ向かいました。このとき河井は「八十里 腰抜け武士の 越す峠」と詠んだと伝わります。8月5日に会津領に入り、会津藩の手配で医師の松本良順の手当ても受けましたが、傷は破傷風となって悪化し、8月16日、会津の塩沢村(福島県只見町)で亡くなりました。42歳でした。
塩沢村で死が近いことをさとった河井は、従者の松蔵に自分の棺をつくらせ、棺ができていく様子をじっと見ていたと伝わります。この場面は、司馬遼太郎の小説『峠』でも印象深く描かれています。

戦いの流れ(慶応4年)
| 月日 | 出来事 |
|---|---|
| 5月2日 | 小千谷談判。河井継之助と岩村精一郎の会談が決裂する |
| 5月10日 | 長岡藩が榎峠を攻め取る |
| 5月13日 | 朝日山の戦い。新政府軍の時山直八が戦死 |
| 5月19日 | 新政府軍が信濃川を渡り、長岡城が落ちる |
| 6月2日 | 同盟軍が今町を取り返す |
| 7月24日 夜 | 河井継之助が長岡藩兵約700人を率いて八丁沖を渡る |
| 7月25日 | 長岡城を奪い返す。河井が負傷。新政府軍が新潟の太夫浜に上陸 |
| 7月29日 | 新潟町が押さえられ、長岡城がふたたび落ちる |
| 8月5日 | 八十里越を越えて会津領に入る |
| 8月16日 | 河井継之助、会津の塩沢村で死去(42歳) |
その後—7万4千石から2万4千石へ
戦いのあと、長岡藩は7万4千石から2万4千石に減らされ、城下は焼け野原となりました。藩士たちは食べるものにも困るほどでしたが、明治3年(1870)、支藩の三根山藩から見舞いに米百俵が届くと、藩の大参事・小林虎三郎はこれを分けずに売り、学校を建てる費用にあてました。のちに「米百俵」として語りつがれる話です。
越後を押さえた新政府軍は、その後、会津へ攻め入ります。長岡を離れた同盟軍の兵の多くも会津へ向かい、会津戦争を戦うことになりました。
この戦いが示したもの
長岡戦争は、小さな藩でも、すぐれた指導者と最新の兵器と地の利があれば、大きな軍とここまで渡り合えることを示しました。八丁沖の奇襲は、敵が「通れない」と思いこんでいる場所こそ守りが薄い、という戦いの鉄則をあざやかに見せた作戦です。
一方で、河井がめざした武装中立は、どちらにもつかない道を、どちらの側も許さなかったことで行き詰まりました。そして戦いの勝ち負けを最後に決めたのは、陸の戦場ではなく、海から新潟を押さえた新政府軍の動きでした。どれほど強い軍隊でも、補給と港を断たれれば戦い続けられない。箱館戦争と同じ教えが、ここにもあります。
現地を歩く—長岡城跡と北越戊辰戦争の史跡
長岡城の本丸は、いまのJR長岡駅のあたりにありました。戦いで焼けたあと城は取り壊され、明治31年(1898)に鉄道の長岡駅ができたとき、本丸の跡はすっかりなくなりました。駅の大手口の広場には「長岡城本丸跡」の碑が、二の丸跡のアオーレ長岡のそばには「長岡城址」の碑が立っています。

八丁沖は、いまでは一面の田んぼです。長岡藩兵が上陸した富島には八丁沖古戦場パークがあり、近くの日光社には鬼頭熊次郎の碑が立っています。小千谷市の朝日山は古戦場として整備され、山頂から信濃川と小千谷の町を見下ろせます。市内には河井継之助記念館があり、河井の墓は長岡藩主・牧野家の菩提寺の栄涼寺にあります。
筆者の感想
長岡城跡には新幹線の駅ができてしまったと、地元の人から聞きました。なんてもったいないと思いました。でも地元の人はそれを逆手にとって、「長岡の人は豪快だからなぁ」と言っていました。
朝日山は、奇兵隊の時山直八が戦死した場所です。その石碑を見に行こうと、雨上がりの夕方に車で登り始めました。ところが急な坂で滑るので、登るのをやめました。途中、どうにかUターンできそうな場所でUターンしたら、またスリップして、車が田んぼに落ちそうになりました。なので、JAFを呼びましたよ……。
八丁沖も見に行きました。奇襲には鬼頭熊次郎という人がかなり貢献したようですね。残念なことに、スマホの前のガラケー時代に行ったので、写真がないのです。
それにしても、1日の差で戦線を突破された、本当にきわどい戦いでしたよね。双方が奇襲を決行すると決めていて、山縣のほうが1日早かった。河井は残念でした。
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- 会津戦争
- 長岡城
- 長岡藩・桑名藩・新発田藩・与板藩
参考資料
- 大山柏『補訂 戊辰役戦史』(時事通信社)
- 『長岡市史 通史編』(長岡市)
- 稲川明雄『決定版 河井継之助』(東洋経済新報社)
- 新潟日報社『戊辰戦争140年 中越の記憶』(新潟日報事業社)
文:佐藤秀信
※進軍図・場面の絵はイラストです




