長岡城:河井継之助率いる長岡藩が新政府軍と死闘を繰り広げた牧野家7万4千石 長岡城【お城特集 日本の歴史】

長岡城は新潟県長岡市にあった平城です。
戦国時代前期に越後国守護の長尾氏の一族が「蔵王堂城」を築いたことに始まります。

長岡城:河井継之助率いる長岡藩が新政府軍と死闘を繰り広げた牧野家7万4千石 長岡城【お城特集 日本の歴史】

長尾景信が「御館の乱(謙信の後継者争い)」で戦死すると上杉景勝が直接支配する領地となります。1598年に秀吉の命により「上杉景勝」が会津に移封すると、かわって越後に入封した堀秀治の弟「堀親良」が四万石を与えられて蔵王堂城主となります。

しかし、徳川家康が天下を統一したあとの1610年、堀家は継嗣問題で減封され徳川家康の6男「松平忠輝」が越後を拝領し蔵王堂城もその支配下に治まります。慶長十九年から元和元年(1614〜1615年)の大坂の陣における不始末を咎められ、「松平忠輝」は元和二年(1616年)に除封・改易されてしまいます。

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一方、蔵王堂城には再び堀家(堀直寄)が八万石にて入封しました。直寄は「蔵王堂城」が信濃川の洪水に弱いことから、信濃川から少し離れた長岡の地に新しく城を築き城下町を移して長岡藩を樹立します。1618年には堀直寄は越後村上に転封され、かわって譜代大名「牧野忠成」が六万二千石にて城主に任命されます。

牧野氏は越後国にて徳川家譜代大名として重要な役割が与えられ、その後加増され七万四千石となります。明治維新まで牧野氏が代々この地を治めることになるが、幕末時の長岡藩家老「河井継之助」は薩摩藩・長州藩からなる新政府軍に徹底抗戦を試み、信濃川に対峙して戦闘を繰り広げました。

※河井継之助
河井継之助

しかし、新政府軍の攻撃を受けて長岡城は落城し、城は焼失してしまいます。長岡藩は明治元年二万四千石への減封により家名存続をゆるされました。「河井継之助」は最新式の軍整備により良く戦ったが最後は敗れ、会津へ逃れる途中に負傷した傷が悪化し亡くなりました。

現在の長岡城跡地には長岡駅が建設されおり、遺構はあまり残っていないが少し離れた悠久山公園に、天守を思わせる外観の「長岡市郷土史料館」が建っています。

※長岡市郷土史料館
長岡城:河井継之助率いる長岡藩が新政府軍と死闘を繰り広げた牧野家7万4千石 長岡城【お城特集 日本の歴史】

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目次

一度落ちた城を、沼を渡って取り返しました

長岡城は二度落ちています。河井継之助記念館の年表によれば、慶応四年四月二十七日に新政府軍が小千谷を占領、五月二日に小千谷会談が決裂、五月十日に榎峠で戦闘、そして五月十九日に長岡城が初めて陥落しました。

ここからが長岡藩の意地です。七月二十四日の夜、魔物が住むと言われた八丁沖を約七百名の長岡兵が渡渉し、二十五日の未明に城を奪い返しました。誰も渡れないと思っている湿地を渡ることが作戦の全部だったわけです。ただし奪還は四日しか続かず、七月二十九日にまた落ちています。

三十分で決裂した談判

五月二日の小千谷談判は、慈眼寺の「会見の間」で行われました。相手は新政府軍の軍監で、名前の表記が資料で分かれます。小千谷市は「岩村高俊」、記念館と新潟県、長岡観光ナビは「岩村精一郎」。高俊が実名、精一郎が通称で同じ人物です。

小千谷市の説明では「岩村は、河井が持参した長岡藩主の嘆願書を見ることもなく、短時間で談判は決裂しました」。新潟県の資料は河井の言葉を「会津征伐というならば仲介をいたしましょう。従って、多少のときが欲しい」と記し、「談判は三十分ほどで決裂しました」としています。三十分で北越の戦いが決まったことになります。

担架で八十里越を越えました

河井継之助は長岡城奪還のさいに撃たれました。記念館は七月二十五日未明に左足を撃たれて重傷、長岡観光ナビは新町口の戦いを応援しようと向かう途中に左膝へ一発、としています。部位が左足と左膝で、場所の地名は長岡観光ナビにしか出てきません。

会津へ向かう道のりは、国土交通省北陸地方整備局の八十里越のページに残っています。「敵弾で足をくだいた河井継之助は、担送されて、見附、文納、葎谷を経て八月三日、吉ヶ平に入った」。八月四日に八十里越へ向かい、山中で一泊して六日に只見へ着きました。

亡くなったのは八月十六日の午後八時ごろ、会津領塩沢村です。年齢は記念館が四十一歳、長岡観光ナビと只見町が四十二歳としており、数え年と満年齢の差と思われますが断定できる記述は見つかりませんでした。死因は只見町が「傷の悪化(諸説では破傷風)」と留保付きで書いています。

担架の上で詠んだという句も、表記が二通りあります。只見町と長岡観光ナビは「八十里 腰抜け武士の 越す峠」、国土交通省は「八十里こしぬけ武士の越す峠」として「狂句」と呼んでいます。自分を腰抜けと呼べる人が、三十分の談判では引かなかったわけです。

天守はなく、御三階がその役でした

長岡城に天守はありません。「御三階」と呼ばれる櫓がその役割を果たしていました。別称は「苧引形兜城」。築城は元和四年三月、堀直竒の移封のあとに入部した牧野忠成が、堀氏の築城を引き継いだものです。

城跡の現況は長岡市の説明どおり、「現在の長岡駅付近が本丸跡、アオーレ長岡付近が二の丸跡」で、アオーレ長岡の隣に「長岡城跡」の碑が建っています。駅そのものが本丸だった城は、そう多くありません。

米百俵は、明治三年五月のことです

長岡市の説明によれば、明治三年五月、戦争の窮状を知った支藩の三根山藩から見舞いとして米百俵が贈られました。三根山藩は現在の新潟市西蒲区峰岡です。小林虎三郎が残した言葉はこう伝わります。「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、ことごとく人にある。」

国漢学校が昌福寺で開校したのは明治二年五月一日、坂之上町の新校舎に移ったのが明治三年です。城を二度失った藩が、次に建てたのが学校だったという順序に意味があります。

悠久山公園の蒼柴神社は、祭神が事代主命と牧野忠辰公。天明元年に現在地へ移り、長岡市の説明では「幾度かの戦火にも燃えることなく当時の姿をそのまま残している」社殿です。城が二度焼けた町で、焼けなかったものが残っています。

長岡城の構造と、米百俵の人びと

天守のない平城

長岡城は、本丸の北西に三階櫓(御三階)を置いて天守の代わりとした平城です。曲輪は本丸・二の丸・詰めの丸からなり、城門は十七棟ありました。石垣は本丸の一部だけで、ほかは土塁と堀で守られていました。その姿から「苧引形兜城」とも呼ばれています。

小林虎三郎と三島億二郎

北越戦争で城下が焼け、七万四千石から二万四千石に減らされた長岡藩は、ひどい困窮に陥りました。見舞いに届けられた米百俵を、藩士たちに分けずに学校の費用に充てるよう説いたのが、大参事の小林虎三郎です。同じく藩の立て直しにあたった三島億二郎は、河井継之助の幼なじみで、戦後の長岡の復興を支えました。「米百俵」の話は、教育こそが国を興すという考えとして、いまも語り継がれています。

場所・アクセス・地図

新潟県長岡市大手通

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