トーマス・ブレーク・グラバーは、二十一歳で長崎に来て、幕末の西南諸藩に船と銃を売った英国の商人です。薩摩藩の留学生十九人をイギリスへ送り出し、小菅修船場と高島炭坑をつくり、明治三年に会社を潰し、それでも日本に残って七十三歳まで生きました。旧グラバー住宅はいま重要文化財であり、世界遺産の構成資産でもあります。
二十一歳で、長崎に来ました

天保九年、スコットランド北部のフレーザーバラに生まれました。父は沿岸警備隊に勤める海軍大尉です。港町で育った人でした。
長崎に着いたのは安政六年九月。日本が開港したその月に、上海を経由して入ってきています。二十一歳でした。貿易商のケネス・マッケンジーの商社に勤め、文久元年にマッケンジーが中国へ去ると、その仕事を引き継いで自分の商会を立ち上げます。
グラバー商会は、大商社の代理店でもありました

最初の五年で莫大な利益を上げた、と長崎市は書いています。茶、絹、銀、各地の特産品の輸出です。
ただ、この商会の実像は「独立した一匹狼の商人」ではありません。研究者の整理では、自己資金で取引する一方、ジャーディン・マセソン商会のような大商社の長崎代理店を務めることで大きくなったとされます。後ろに資金力のある本体がいた。そこが幕末の長崎で動けた理由でした。
何の船を売ったのか—実は特定できません
ここは正直に書いておきます。グラバーがどの藩にどの船を売ったのか、公的な資料では船名まで特定できませんでした。
長崎市の公式解説は「坂本龍馬などの志士に銃、艦船、機械類を大量に販売。取引相手は倒幕を画策する西南諸藩だった」までです。藩名も船名も書いていません。学術的な整理でも「薩長雄藩」「各藩の要求に応え」という水準にとどまります。
もうひとつ、見落とされがちな事実があります。グラバーの長兄チャールズは、アバディーンで船舶保険業を営み、各藩の依頼による艦船の建造を仲介していました。艦船の取引は、グラバー個人よりも兄のルートだった可能性があります。「グラバー家の家業は造船業」という誤った説も、ここから生まれたのかもしれない、と研究者は書いています。
ですから、個々の船について「グラバーが売った」と書くときは、その船ごとに出典を確かめる必要があります。このサイトの白凰丸や青鷹丸のような薩摩藩の汽船についても、購入先は分かっていません。
慶応元年、薩摩の十九人を送り出しました
海外渡航が禁じられていた時代に、薩摩藩は留学生を含む十九人をイギリスへ送りました。甑島へ出張するという名目で、全員が変名を使い、串木野の羽島浦から出ています。
鹿児島県の資料によれば、一行は羽島で二か月ほど待ち、長崎の貿易商グラバーの船が迎えに来て出航しました。グラバーは留学生の支援者でもありました。
ひとつ注意が要ります。文久三年の長州の五人、いわゆる長州ファイブの密航については、斡旋者はグラバーではなくジャーディン横浜支店のサムエル・ガワーだという指摘があります。慶応元年の薩摩と、文久三年の長州は分けて考える必要があります。
小菅修船場—ソロバンドック
長崎の小菅に残る、船を陸へ引き上げる施設です。文化庁の解説はこう書いています。慶応三年、五代才助を中心に事業が進められ、小松帯刀とイギリス商人のトーマス・ブレーク・グラバーが出資した。竣工は明治元年十二月六日。
着手の年は資料で食い違い、長崎市のページは慶応二年としています。竣工の日付は一致しています。
明治二年三月、政府がグラバーから買収して官営とし、明治二十年に三菱へ払い下げられました。いまの三菱重工業長崎造船所の起源です。
高島炭坑
明治元年、長崎港外の高島炭坑に洋式の採炭法を導入しました。商会が潰れたあともしばらく長崎にとどまり、自ら開発に関わったこの炭坑の操業に加わっています。
明治三年八月、会社は倒産しました
「薩長に武器と船を売ったが、代金を踏み倒されて潰れた」という話をよく見かけます。この通説は、研究によって明確に退けられています。
杉山伸也氏の研究を評した論文は、踏み倒し説を「単純すぎる」として退け、幕末の投機的な貿易商から新しい国の鉱工業の企業家へ移ろうとする途中で、資金面で背伸びしすぎた結果の失速と見るのが妥当だとしています。ジャーディンが手を引いたあとに資金を出したのはオランダ貿易会社で、破産の整理もこの会社が行いました。
倒れた理由は、相手に裏切られたからではなく、時代が変わる速さに自分の資金が追いつかなかったからでした。
それでも、日本に残りました
倒産のあとも帰国していません。明治三十年、日本人の妻ツルとともに東京へ移り、三菱の顧問として晩年を過ごしました。
横浜のジャパン・ブルワリ・カンパニーの設立にも力を貸しています。のちのキリン麦酒です。キリンのラベルの麒麟にある髭は、グラバーの髭がもとになっているとも言われますが、長崎市の公式ページも「とされる」という書き方にとどめています。
慶応元年には大浦の海岸で日本で初めて汽車を走らせ、明治四十一年には外国人として初めて勲二等旭日重光章を受けました。明治四十四年十二月十三日、東京の自宅で死去。七十三歳でした。
旧グラバー住宅は、重要文化財です

国宝と書かれていることがありますが、正しくは重要文化財です。指定は昭和三十六年六月七日。建築は文久三年で、大工の墨書によって確かめられています。木造の洋館としては日本に残る最古の遺構です。
平成二十七年七月に登録された世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産でもあります。長崎市内の構成資産のうち、グラバーに関わるものは旧グラバー住宅・小菅修船場跡・高島炭坑北渓井坑跡の三つです。
訪ねるなら
- 旧グラバー住宅(長崎市南山手町、グラバー園内)。重要文化財、世界遺産構成資産
- 小菅修船場跡(長崎市小菅町)。世界遺産構成資産
- 高島炭坑 北渓井坑跡(長崎市高島町)。世界遺産構成資産
- 坂本国際墓地のグラバー家墓地(長崎市坂本一丁目)。長崎市指定史跡。妻ツルの分骨が合葬され、隣に長男・倉場富三郎の墓があります
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参考にした資料
- 長崎市「ナガジン」トーマス・ブレーク・グラバー特集、長崎市文化財課「旧グラバー住宅」「グラバー家墓地」、長崎市世界遺産室
- 文化庁 国指定文化財等データベース、文化遺産オンライン「小菅修船場跡」
- 慶應義塾大学学術情報リポジトリ所収の書評(杉山伸也『明治維新とイギリス商人 トマス・グラバーの生涯』について)


