2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

榎本武揚(えのもと たけあき)は、幕府の海軍を率いて最後まで新政府に抵抗し、箱館(函館)で「総裁」に選ばれた人です。降伏して牢に入りながら、のちに明治政府で公使や大臣を歴任しました。敗者から国の中枢へ、幕臣の中でもきわめて珍しい生き方です。
慶応4年の江戸城の評定では、大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公・小栗忠順とともに徹底抗戦を唱えた一人でもあります。家と身分、幕末の歩み、出世の経緯、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にたどります。
榎本武揚とは—先に答え
| 家・身分 | 幕臣(御家人)榎本家の次男。江戸下谷御徒町の生まれ。父・武規は伊能忠敬の弟子 |
|---|---|
| 生没 | 天保7年(1836年)8月25日〜明治41年(1908年)10月26日。享年73 |
| 名前 | 通称は釜次郎、号は梁川 |
| 幕末に何をした | 長崎海軍伝習所で学び、オランダへ留学。開陽丸で帰国し艦長、軍艦頭、海軍副総裁 |
| 出世の経緯 | 最新の海軍知識を買われ、帰国から1年足らずで艦長から海軍副総裁へ |
| 関わった戦い | 阿波沖海戦、旧幕府艦隊の江戸脱出、箱館戦争(総裁)、宮古湾海戦 |
| 明治の出世 | 黒田清隆らの助命で特赦。開拓使、日本初の海軍中将、駐露公使(樺太・千島交換条約)、海軍卿、逓信・文部・外務・農商務大臣、子爵 |
| 最期・墓所 | 明治41年に東京で死去。墓は吉祥寺(東京都文京区本駒込) |
伊能忠敬の弟子の家に生まれる
榎本武揚は天保7年(1836年)、江戸下谷御徒町(現在の東京都台東区)で、幕臣の榎本家の次男として生まれました。父の武規はもとは備後国(現在の広島県福山市)の庄屋の次男・箱田良助で、伊能忠敬のもとで日本地図づくりに加わった人です。測量と天文の家に育ったことは、のちの航海術とつながっていきます。
昌平坂学問所で学び、中浜万次郎の塾で英語も習いました。安政元年(1854年)には箱館奉行・堀利煕の従者として蝦夷地に渡っています。のちに戦うことになる箱館を、若いころに見ていたのです。
幕末に何をしたのか—オランダ留学から海軍の頂点へ
長崎海軍伝習所
安政4年(1857年)、長崎海軍伝習所の第2期生となり、オランダ人教官から航海術や蒸気機関を学びました。勝海舟もここで学んだ一人です。
オランダ留学と開陽丸
文久2年(1862年)、幕府がオランダに注文した軍艦の受け取りをかねて留学生に選ばれ、オランダで航海術・造船・国際法を学びました。慶応3年(1867年)3月、完成した開陽丸に乗って横浜に帰国します。開陽丸は当時の日本でいちばん強い軍艦でした。
阿波沖海戦と海軍副総裁
慶応4年1月4日、鳥羽伏見の戦いと同じころ、開陽丸を率いて阿波沖で薩摩藩の軍艦と戦い、勝ちました。同月23日には海軍副総裁に任じられます。江戸城の評定では、小栗忠順・大鳥圭介らと徹底抗戦を主張しました。小栗の作戦は、箱根を下りてくる新政府軍を陸軍で迎え撃ち、榎本の艦隊を駿河湾に突入させて補給を断つというものでした(【幕末のもしも】小栗忠順の作戦が採用されていたら)。
出世した経緯—1年で艦長から副総裁、敗者から大臣へ
帰国した慶応3年の5月に開陽丸の艦長、7月に軍艦頭並、9月に軍艦頭、翌年1月に海軍副総裁と、1年足らずで幕府海軍のトップに立ちました。最新の海軍知識と国際法を身につけた人は、ほかにほとんどいなかったからです。
箱館で降伏したあと、明治2年から東京の牢に入れられました。新政府の中には厳しい処罰を求める声も強かったのですが、榎本の才能を惜しんだ黒田清隆が強く助命を求め、福沢諭吉らも力を尽くしました。黒田は榎本のために頭を丸めたこともあると伝わります。明治5年1月に特赦で出獄すると、開拓使に出仕し、明治7年には日本で最初の海軍中将となり、駐露特命全権公使としてロシアへ赴任しました。明治8年5月に樺太・千島交換条約に調印したのは榎本です。その後、海軍卿、駐清公使、そして逓信・文部・外務・農商務の各大臣を務め、明治20年に子爵となりました。
逸話
『万国海律全書』を敵に贈る
五稜郭で降伏をすすめられたとき、榎本はこれを断る一方で、オランダ留学以来いつも持ち歩いていた国際海洋法の本『万国海律全書』が戦火で失われないよう、新政府軍の黒田清隆に贈りました。黒田が榎本の助命に力を尽くすきっかけになった話として知られます。
自刃を止められる
明治2年5月16日、榎本は自刃しようとして周りに止められました。家来が素手で刀をつかんで止めたという話も伝わっています。
流星刀
明治31年(1898年)、富山県で見つかった隕石を手に入れ、それを材料に日本刀「流星刀」をつくらせて皇太子に献上しました。
福沢諭吉の「瘠我慢の説」
福沢諭吉は、幕臣でありながら新政府に仕えた勝海舟と榎本を「瘠我慢の説」で批判しました。榎本は「多忙につき、いずれ返答する」と短く返しただけでした。
酒と向島
大の酒好きで、日本酒を「米の水」と呼んだといわれます。晩年は向島に住み、向島百花園を散歩道にしていました。
関わった事件・戦い
旧幕府艦隊の江戸脱出
江戸城の明け渡しのあとも艦隊を引き渡さず、慶応4年8月19日、開陽丸など8隻を率いて品川沖から脱出しました。仙台で大鳥圭介や土方歳三らの陸兵を乗せ、蝦夷地へ向かいます。
箱館政権の総裁
10月に鷲ノ木に上陸し、26日に五稜郭を占領しました。その後、江差攻めの最中に開陽丸が座礁して失われます。12月15日、士官たちの入れ札(選挙)で総裁に選ばれました。
宮古湾海戦と降伏
明治2年3月25日、新政府の最新鋭艦・甲鉄を奪おうと回天丸で宮古湾に突入しましたが失敗しました(宮古湾海戦の碑)。5月11日の総攻撃で追いつめられ、5月18日に降伏します。
樺太・千島交換条約
明治8年(1875年)、ロシアとの間で、樺太をロシア領、千島列島を日本領とする条約を結びました。帰国のときはシベリアを横断して戻り、その旅の記録を残しています。
最期
明治38年に海軍中将を退き、明治41年(1908年)7月から病床につき、10月26日に東京で亡くなりました。73歳でした。10月30日には海軍葬が行われています。墓は文京区本駒込の吉祥寺にあります。
榎本武揚ゆかりの地
吉祥寺の墓(東京都文京区)
文京区本駒込3-19-17。東京メトロ南北線「本駒込」駅から歩いて7分ほどです。
梅若公園の榎本武揚像(東京都墨田区)
墨田区堤通2-6-10。晩年を向島で過ごした榎本の銅像が立っており、墨田区の登録文化財になっています。近くの墨田区郷土文化資料館(向島2-3-5)には、榎本が書いた「牛嶋学校」の扁額が残ります。晩年の散歩道だった向島百花園もこのあたりです。
五稜郭と箱館奉行所(北海道函館市)
函館市五稜郭町44-3。復元された箱館奉行所は4〜10月が9時〜18時、11〜3月が9時〜17時です。現地のようすは五稜郭、四稜郭、弁天台場跡でも紹介しています。
碧血碑(北海道函館市)
明治8年(1875年)、箱館戦争で死んだ旧幕府軍の兵をまつるために建てられた碑です。榎本と大鳥圭介らが協力して建てました。
龍宮神社(北海道小樽市)
開拓使にいたころの榎本が建てた神社で、榎本の書「北海鎮護」が残っています。
2027年NHK大河ドラマ
『逆賊の幕臣』大河ドラマ特集
放送日・キャスト28人と相関・あらすじ・見どころから、主人公・小栗忠順の生涯とゆかりの地の現地写真まで、1ページで徹底解説しています。
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参考資料
- Wikipedia「榎本武揚」
- コトバンク「榎本武揚」(日本大百科全書・ブリタニカほか)
- 国立公文書館「旗本御家人」榎本武揚
- Wikipedia「黒田清隆」
- 墨田区「梅若公園」
- 文京区「吉祥寺」
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