2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の主人公・小栗忠順は、彰義隊の隊長を頼まれて断ったと伝えられます。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
彰義隊(しょうぎたい)は、江戸幕府が終わった直後の慶応4年(1868)に、旧幕臣たちが江戸でつくった部隊です。最後の将軍・徳川慶喜を守ることを掲げて上野の寛永寺に集まり、5月15日、新政府軍の総攻撃を受けて、わずか1日で壊滅しました。これが「上野戦争」です。
このページでは、彰義隊がなぜ生まれ、なぜ上野で戦うことになったのか、いちばんの激戦地だった「黒門」で何が起きたのか、そして戦いのあとに残されたものまでを、順にたどります。
先に答え—彰義隊とは
| 結成 | 慶応4年(1868)2月。2月23日、浅草の本願寺で「彰義隊」と名乗ったとされます |
|---|---|
| 名前の意味 | 「大義を彰(あき)らかにする」 |
| 中心人物 | 頭取・渋沢成一郎(渋沢栄一のいとこ)、副頭取・天野八郎 |
| 目的 | 謹慎中の徳川慶喜を守り、その名誉を回復すること。江戸市中の見回りも任されました |
| 拠点 | 上野・東叡山寛永寺 |
| 最期 | 慶応4年5月15日の上野戦争で、1日で敗れる |
| 攻めた側 | 新政府軍。指揮は大村益次郎。正面の黒門口は薩摩兵が受け持ちました |
| ゆかりの地 | 上野公園の彰義隊の墓、寛永寺、南千住の円通寺(黒門が移されています) |
彰義隊はなぜ生まれたのか
慶応4年1月、鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は、大坂から江戸へ戻りました。2月12日には江戸城を出て、上野・寛永寺の大慈院にこもり、新政府に恭順(逆らわない)する姿勢を示します。
これに納得できなかったのが、慶喜の家来たちでした。とくに慶喜が将軍になる前から仕えていた一橋家ゆかりの者たちが中心になって集まりを重ね、主君が「朝敵」とされたことを晴らしたい、主君の身を守りたい、という思いから仲間を募ります。こうして2月23日、浅草の本願寺で「彰義隊」と名乗りました。「大義を彰らかにする」という名前は、隊士の一人・阿部杖策の発案と伝えられます。
やがて幕府側から江戸市中の取り締まり(見回り)も任され、旗本の次男・三男、諸藩を脱した者、町人まで加わって、隊はみるみる大きくなりました。多いときには三千人とも四千人ともいわれます。
小栗忠順は、隊長の話を断ったと伝えられます
大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公・小栗忠順(小栗上野介)にも、彰義隊の隊長になってほしいという話があったと伝えられます。2月末、頭取の渋沢成一郎から打診を受けたものの、「無名の師」—大義名分のない戦いだ—として断った、という逸話です。
小栗はこのころ、すでに勘定奉行などの職を解かれ、知行地の上州権田村へ移る許しを得ていました。2月28日、家族や家臣とともに江戸を離れています。ただしこの逸話は、広く紹介されているものの、一次の出典ははっきりしません。そのうえで、戦うべきかどうかを冷静に見ていた小栗らしい話として読まれています(くわしくは小栗上野介はなぜ殺されたのか)。
江戸を離れて戦いを避けた小栗も、結局は助かりませんでした。上野戦争より1か月あまり前の閏4月6日、小栗は権田村の水沼河原で、取り調べもないまま斬られています。戦うことを選んだ者も、選ばなかった者も、新政府には「旧幕府の脅威」と見なされた時代でした。
渋沢成一郎と天野八郎—隊は二つに割れた
彰義隊は、はじめから一枚岩ではありませんでした。頭取の渋沢成一郎は、のちに「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一のいとこです。栄一とともに一橋家に仕え、慶喜の側近く仕えた人物でした。
4月11日、江戸城が新政府軍に明け渡され、同じ日に慶喜は水戸へ退きます。守るべき主君が江戸を去ったあと、隊をどうするかで意見が分かれました。渋沢は「江戸の町を戦場にしてはならない」と考え、江戸を出て態勢を立て直すことを主張します。一方、副頭取の天野八郎は、上野にとどまることを主張しました。
結局、渋沢は仲間とともに隊を離れ、武蔵国の田無村へ移って「振武軍」をつくります。振武軍は上野戦争のあと、5月23日に飯能(いまの埼玉県飯能市)で新政府軍に敗れました(飯能戦争)。このとき、渋沢栄一の見立て養子だった渋沢平九郎も加わっていて、敗走の途中で命を落としています。栄一自身は、このころパリ万博の使節団に加わってフランスにいました。
江戸無血開城のあとも、上野に残った
江戸城は、勝海舟と西郷隆盛の話し合いを経て、戦わずに明け渡されました。しかし上野の山には、天野八郎らが率いる彰義隊がそのまま残りました。寛永寺には、皇族出身の輪王寺宮(公現法親王)がいて、彰義隊はその宮を守るという立場もとっていました。
新政府にとって、江戸の真ん中に旧幕府方の武装集団がいることは、大きな不安の種でした。隊士と新政府軍の兵の小競り合いも起き、江戸の治安は不安定なままでした。新政府は江戸市中の取り締まりを彰義隊から取り上げ、武力で解散させる方針を固めます。作戦を任されたのが、長州の大村益次郎でした(大鳥圭介と大村益次郎)。
上野戦争—黒門口の激戦

慶応4年5月15日(1868年7月4日)、新政府軍は早朝から上野の山を囲み、攻撃を始めました。この日は雨でした。
いちばんの激戦地になったのが、寛永寺の正面にあたる黒門口です。ここを受け持ったのは、西郷隆盛の率いる薩摩兵でした。門の内側に陣取った彰義隊は激しく応戦し、攻め手は正面からなかなか突破できませんでした。一方、長州兵などは北西の団子坂・谷中方面から山の背後に回りこみます。
勝敗を分けたのは、佐賀藩が持ち込んだ最新式のアームストロング砲だったといわれます。本郷台(加賀藩邸のあたり)から不忍池越しに撃ちこまれた砲弾が山内に落ち、寛永寺の建物は次々に燃え上がりました(彰義隊を沈黙させた大砲—アームストロング砲の衝撃)。
午後になると彰義隊は総崩れとなり、夕方までに戦いは終わりました。寛永寺の根本中堂をはじめ、多くの堂舎がこの戦いで焼けています。上野の山の戦いは、ほぼ1日で決着したのです。
布陣図と、戦いの一日の流れは上野戦争とはで詳しく解説しています。
戦いのあと—放置された遺体と、残されたもの
敗れた彰義隊士の遺体は、「賊軍」として葬ることが許されず、しばらく上野の山に放置されたと伝えられます。これを見かねた南千住・円通寺の住職、仏磨と、神田の商人・三河屋幸三郎らが、266体の遺体を山内で火葬し、円通寺に葬りました。
上野公園の西郷隆盛像の北側には、いまも「彰義隊の墓」があります。明治2年に寛永寺の僧によって小さな碑が埋められ、明治7年に生き残りの隊士・小川椙太(興郷)らが政府の許しを得て建立を進め、明治14年に大きな墓碑が完成しました。小川は生涯この墓を守り続けたとされます。
激戦の舞台となった寛永寺の黒門は、明治40年に円通寺へ移されました。門には、いまも無数の弾痕が残っています。
副頭取の天野八郎は、戦いのあと江戸に潜んでいましたが、7月13日に捕らえられ、11月8日に獄中で病死しました。輪王寺宮は上野を脱け出し、海路で東北へ逃れて、奥羽越列藩同盟の盟主に迎えられます。上野を落ちのびた隊士の一部は、東北や箱館へ渡り、戦いを続けました。
彰義隊ゆかりの地
- 彰義隊の墓(東京都台東区上野公園):西郷隆盛像の北側。
- 東叡山寛永寺(台東区上野桜木):上野戦争の舞台。根本中堂は明治になって移築・再建されたものです。
- 円通寺(荒川区南千住):彰義隊士を葬った寺。弾痕の残る旧寛永寺の黒門が移されています。
- 飯能(埼玉県飯能市):渋沢成一郎の振武軍が敗れた飯能戦争の地。
上野駅から歩いてすぐの場所に、旧幕臣たちの最後の戦いの跡が残っています。公園を歩くときは、西郷像の裏手の墓にも足を運んでみてください。
小栗忠順のゆかりの地をめぐる
小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。
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- 小栗上野介ゆかりの地 ― 東京・横須賀・埼玉・群馬をたどる(まとめ)
- 倉渕・東善寺をめぐるモデルコース(都内発・車で1泊2日。墓所の東善寺、最期の地、普門院の首塚)
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