石田入道【新選組隊士 平隊士 幕末】

石田入道
職名 平隊士
出身 不明
終焉場所 不明
終焉方法 不明

慶応四年に入隊するがその後の詳細は不明です。

JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)
JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)。明治9年、永倉新八らが建てました(現地取材の記事・筆者撮影)
目次

石田入道をもっと深く—慶応四年に入った隊士

「入道」という名乗りが目を引きます。慶応四年に入隊したこと以外、何も伝わっていません。

慶応四年に入るということ

この年に新選組へ入るのが、どういうことだったのかを書いておきます。

  • 正月三日—鳥羽・伏見で敗れ、江戸へ引き揚げ
  • 三月—甲陽鎮撫隊として甲州へ。勝沼で敗北
  • 四月三日—流山で近藤勇が捕縛される
  • 四月二十五日—板橋で近藤勇が斬首
  • 閏四月〜七月—白河口、白石で奥羽越列藩同盟
  • 八月—母成峠で敗走、会津落城へ
  • 十月—蝦夷へ渡海

負け続けた一年です。この年に入隊するというのは、勝ち目がないと分かったうえで加わるということでした。

それでも人は入ってきました

不思議なことに、この年の新選組には人が集まっています。

新井破摩男は戊辰が始まってから入隊しました。青山次郎は会津藩士ら二十人を連れて加わっています。青木連は蝦夷へ渡ったあとの入隊でした。仙台では唐津・桑名・備中松山の藩士が乗り込んでいます。

幕府が崩れていく過程で、行き場を失った人間の受け皿になっていたということでしょう。勝つために入るのではなく、ほかに行くところがないから入る。

そのあとは分かりません

石田入道が蝦夷まで行ったのか、江戸で消えたのかは記録がありません。入隊した、という一点だけが名簿に残っています。

当サイトの隊士ページを順に見ていただくと、こうした人が並んでいるのが分かると思います。新選組の隊士名簿とは、大半がこの程度の情報しか伝えてくれないものです。その事実自体が、この集団の実像でもあります。

新選組隊士全456名情報

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会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)
会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)。新選組は戊辰戦争で会津藩とともに戦いました(現地取材の記事・筆者撮影)

五兵衛新田で、四十八人が二百二十七人になりました

慶応四年に入隊したという記述について、もう少し細かい時期を推し量ることができます。この隊士の名は戦友の中島登が書き残した名簿に出てくるもので、入隊は慶応四年三月の五兵衛新田駐屯の前後とみられています。五兵衛新田というのは、いまの足立区綾瀬のあたりにあった村で、鳥羽・伏見に敗れて江戸へ帰った新選組が三月十三日の夜から四月一日まで、十九日間だけ屯所を置いた場所です。名主の金子家に残された文書が昭和五十年に見つかり、足立区立郷土博物館が翻刻しています。その記録によれば、着いたときの人数は四十八人。十五日に土方歳三が加わったころには百人を超え、出ていくときには二百二十七人になっていました。十九日間で百八十人ほどが増えた計算です。石田入道が身を投じたのは、近藤勇の顔を知らない者が三週間で百八十人も集まってくる、そういう場所だったことになります。

勝軍山で倒れています

中島登の名簿には、慶応四年八月二十一日、勝軍山での戦いで負傷したと記され、そこに戦死の印も押されているとのことです。勝軍山というのは母成峠古戦場跡に築かれた三段の台場のうち、いちばん奥の台場の別名にあたります。朝九時に始まった戦いは夕方四時に決着し、旧幕府側の八百に対して新政府側は二千二百でした。石田入道はその最後の台場で倒れたことになり、五兵衛新田で隊に入ってから五か月しか経っていません。同じ日、同じ戦場で傷を負って生き延びた隊士に阿部隼太がいます。

ただし、その印にも留保がつきます

中島登は箱館の弁天台場に幽閉されているあいだに『戦友姿絵』という巻物を描き、隊士二十六人と旧幕府方五人の姿に追慕の言葉を添えました。市立函館博物館の解説によれば、会津の如来堂で戦った隊士については、消息を確かめる間もなく海を渡ったため、すべて殉死として記したとのことです。中島の記録はそういう性格のものですから、戦死の印がついているからといって、そのとおりに死んだと決めてしまうことはできません。板橋の新選組供養塔にも、石田入道の名はありません。戦死したはずの隊士の名が碑にないというのは、永倉新八が中島の名簿を見ていなかったか、この名を知らなかったということになります。名が残るかどうかは、誰がどの帳面を持っていたかで決まりました。

会津での新選組の戦いと、土方・斎藤の別れについては、会津の新選組—宇都宮・白河口・母成峠・如来堂、土方と斎藤が別れた夏にまとめています。

石田入道の生きた時代—流山での別れ

流山の陣 慶応四年(1868)三月の甲州勝沼の敗戦のあと、新選組は下総の流山に集まって再起をはかりました。ところが四月三日、新政府軍に囲まれると、近藤勇は大久保大和と名のって出頭します。土方歳三ら隊士を逃がすための決断だったともいわれます(流山陣屋)。

近藤と土方の別れ これが近藤と土方の最後の別れとなりました。正体を見破られた近藤は、四月二十五日に板橋で処刑されます。残された土方たちは会津へ向かい、新選組の戦いは東北へと移っていきました。

慶応四年の入隊と、京都以来の幹部の行方

入れ替わった隊

石田入道が加わった慶応四年、新選組は鳥羽伏見の敗戦を経て江戸に戻り、甲州で敗れたのち、五兵衛新田で隊士を大きく増やしました。新しく加わった者たちの多くは、京都の新選組を知りません。そのころ、京都で隊を率いた幹部たちは、それぞれ別の道を歩み始めていました。主な幹部のその後は次のとおりです。

  • 近藤勇(局長):慶応四年四月、流山で投降し、板橋で斬首
  • 沖田総司(一番組長):慶応四年五月、江戸で病死
  • 井上源三郎(六番組長):慶応四年一月、淀千両松で戦死
  • 永倉新八・原田左之助:慶応四年三月に隊を離れ、靖兵隊を結成。原田は上野戦争で負った傷がもとで死去
  • 斎藤一:会津に残って戦う
  • 土方歳三(副長):箱館政権の陸軍奉行並となり、明治二年五月十一日に戦死

参考資料:Wikipedia日本語版「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。

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