| 根岸友山 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 武蔵国大里郡甲山村(埼玉県熊谷市) | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 病没 | ||
根岸友山をもっと深く—壬生に残り、すぐに去った豪農の剣士
京都に残った壬生浪士のなかに、五十代の豪農がいました。近藤勇や芹沢鴨よりずっと年上の、根岸友山です。
甲山村の豪農
文化六年十一月二十七日(西暦では1810年1月)、武蔵国大里郡甲山村(いまの埼玉県熊谷市冑山)の豪農・根岸信保の長男として生まれました。天保四年(1833)には寺子屋「三余堂」を、天保六年には剣術道場「振武所」を開いています。剣は千葉周作に学びました。
浪士組から壬生へ、そして江戸へ
文久三年(1863)、将軍家茂の上洛に合わせて集められた浪士組に加わり、近藤勇・芹沢鴨らとともに京都に残りました。しかしまもなく、遠藤丈庵・清水五一らと「伊勢参り」を名目に京都を離れ、江戸へ戻ります。
新徴組、そして勤王論
同じ年の五月、江戸で浪士組を引き継いだ庄内藩の新徴組の取締役に就きますが、すぐに退きました。その後は幕府を倒す側の考えをはっきりさせ、慶応四年(1868)には勤王論を説く『吐血論』を著しています。新選組とはまったく逆の道を歩いた人でした。
故郷で迎えた晩年
明治二十三年(1890)十二月三日に亡くなりました。八十歳を超える長寿でした。故郷の熊谷では、いまも「友山祭」が開かれています。
根岸友山の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 文化六年(1810)十一月二十七日 | 武蔵国大里郡甲山村(いまの埼玉県熊谷市冑山)の豪農の家に生まれる |
| 天保四年(1833) | 寺子屋「三余堂」を開く |
| 天保六年(1835) | 剣術道場「振武所」を開く。剣は千葉周作に学んだとされる |
| 天保十年(1839) | 蓑負騒動に加わる |
| 天保十二年(1841) | 江戸十里四方追放となる |
| 安政二年(1855) | 甲山村に帰る |
| 文久三年(1863)二月 | 浪士組に加わって京都へ上り、壬生に残る |
| 文久三年 | 伊勢参りを名目に壬生を離れる。五月十九日、庄内藩の新徴組の取締役になるが、すぐに退く |
| 慶応二年(1866) | 武州一揆で自宅が襲われる |
| 明治元年(1868) | 勤王論『吐血論』を著す |
| 明治二十三年(1890)十二月三日 | 死去。数えで八十二歳 |
根岸友山を読み解く
五十代で浪士組へ
文久三年、根岸は数えで五十五歳でした。近藤勇が三十歳、芹沢鴨が三十代前半だったとされますから、親子ほど年の離れた参加者です。村で寺子屋と剣術道場を開き、門人を抱える地域の名士だった根岸が、なぜこの年で浪士組に加わったのか。尊王攘夷の志を行動で示す、またとない機会と考えたのでしょう。
学問と剣の両方を持つ豪農
三余堂は子どもたちに読み書きを教える寺子屋、振武所は剣術を教える道場です。関東の豪農の中には、学問と武芸の両方をたしなみ、村の若者を教える人が少なくありませんでした。多摩の佐藤彦五郎が天然理心流の道場を開き、近藤勇や土方歳三を育てたのとよく似ています。根岸も、そうした関東の豪農文化から出た人でした。
近藤とは合わなかった
壬生に残った浪士たちの中で、根岸はまもなく伊勢参りを名目に京都を離れ、江戸で新徴組に移りました。その新徴組の取締役もすぐに退いています。明治元年に著した『吐血論』は勤王を説く書で、その中で近藤勇を批判しています。幕府のために働く方向へ進んだ近藤らと、尊王の志を持つ根岸とは、はじめから考えが合わなかったといえます。鳥羽・伏見で旧幕府軍が敗れたとき盛大に祝ったという話まで伝わりますが、これは確かな出典がありません。
一揆に襲われた豪農
慶応二年の武州一揆では、根岸の家も打ちこわしに遭っています。幕末の関東では、物価の高騰に苦しむ百姓たちが、豪農や商人の家を襲う一揆が広がりました。尊王攘夷を志した根岸も、村の中では富を持つ側として恨まれる立場にあったのです。同じく京都に残ったあと離れた殿内義雄のページもあわせてご覧ください。
根岸友山をさらに掘り下げる
壬生に残った人々のなかの「長老」
文久三年に京都に残った浪士たちの年齢を、生年がおおよそ分かる人で並べてみると、根岸の年長ぶりがよく分かります(年齢は文久三年の数え年で、生年に諸説ある人は目安です)。
| 浪士 | 文久三年の年齢 |
|---|---|
| 根岸友山 | 五十五歳 |
| 平間重助 | 四十歳 |
| 殿内義雄 | 三十四歳 |
| 近藤勇 | 三十歳 |
| 土方歳三 | 二十九歳 |
| 沖田総司 | 二十歳前後 |
近藤勇より二十五も年上で、すでに故郷で寺子屋と道場を開き、門人を抱える身でした。近藤らが若い剣士の仲間どうしで動いていたのに対し、根岸は村の有力者として、門人を連れて浪士組に加わった人です。同じ「京都に残った浪士」でも、立場も年齢もまったく違っていました。根岸がまもなく壬生を去ったのは、考えの違いだけでなく、こうした立場の違いも大きかったのでしょう。
江戸へ戻ったころ、清河八郎が斬られた
浪士組を生み出した清河八郎は、尊王攘夷の志士でした。浪士組を率いて江戸へ戻った清河は、文久三年四月十三日、江戸の麻布一の橋のあたりで幕府の刺客に斬られます。根岸が伊勢参りを名目に京都を離れ、江戸へ戻ったのは、ちょうどこの前後の時期でした。
清河の死後、江戸に戻った浪士組は新徴組として庄内藩に預けられ、幕府のもとで江戸の警備にあたる組織になっていきます。尊王の志を持つ根岸が、その取締役をすぐに退いたのは自然な成り行きでした。京都の壬生浪士組も、江戸の新徴組も、根岸にとっては志を託せる場所ではなかったのです。
関東の豪農と剣術
幕末の関東の村々では、名主や豪農が自ら剣術を学び、屋敷に道場を開くことが珍しくありませんでした。治安の悪くなった村を自分たちで守るという実用の目的もありました。多摩の日野で天然理心流の道場を開き、近藤勇や土方歳三を支えた名主の佐藤彦五郎も、その一人です。
根岸の「振武所」も同じ流れの中にあります。ただ、近藤たちは多摩の豪農の後ろ盾を受けて京都で幕府のために働く道を選び、根岸は自らが豪農として尊王の側に立ちました。関東の豪農の剣術という同じ土壌から、正反対の道を歩む人が出たことになります。同じ浪士組から京都に残り、まもなく斬られた殿内義雄も上総の名主の家の出でした。
根岸友山と関わりの深い人たち
ゆかりの地
- 冑山(埼玉県熊谷市):生まれ育った甲山村。友山祭が開かれる故郷です。
- 壬生・八木邸(京都市中京区壬生)—壬生浪士組の屯所。
参考にした資料:Wikipedia「根岸友山」、根岸友山『吐血論』。
熊谷に残る友山
生年について、熊谷市の郷土資料は文化六年十一月二十四日と記しています。十一月二十七日とする資料もあり、三日の違いがあります。剣についても、天保六年にまず甲源一刀流の目録を受け、そのうえで北辰一刀流の千葉周作に学んだという順序が市の資料に見えます。北辰一刀流だけを挙げると、この地方の剣の流れが見えなくなります。
現地に残るものは多いほうです。根岸友山の墓は埼玉県の記念物(旧跡)に指定され、昭和十五年三月三十一日の指定です。根岸家の長屋門は熊谷市の文化財になっています。寺子屋の三余堂には国学者の寺門静軒を招いて子弟を教えました。明治二十一年には漢詩集『田園雑興』を出しており、剣客というより在郷の文人としての顔がうかがえます。地元では「友山まつり」も続けられてきました。
新選組をもっと知る本
根岸友山のように早く隊を離れた人物を追うと、浪士組が何を目指して京へ上ったのかが見えてきます。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』は、その原点に立ち返るのに向いた本です。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:中村五郎(平隊士)
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新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

