| 柴田彦三郎 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 不明 | ||
| 終焉場所 | 京都 屯所 | ||
| 終焉方法 | 切腹 | ||
柴田彦三郎をもっと深く—隊士たちの前で切腹させられた脱走者
隊の規律を破った者がどうなるかを、隊士たちに見せる形で処断された隊士です。
江戸での募集で入隊
天保十年の生まれです。元治元年十月、近藤勇が江戸で行った隊士募集に応じて京都へ上りました。
無断の金策と脱走
慶応二年二月、柴田は一橋家の家臣と組んで、隊に無断で金を集めようとします。そして隊を抜け出しました。内海次郎・近藤芳助らの追っ手が差し向けられ、柴田は但馬の江原村(いまの兵庫県豊岡市)で捕まり、新選組に引き渡されます。
慶応二年六月二十三日、屯所で切腹
柴田は慶応二年六月二十三日、屯所で大勢の隊士が見守るなか切腹させられました。二十八歳でした。遺体は光縁寺に葬られています。新選組の「局中法度」の厳しさを示す例として、よく挙げられる一件です。
柴田彦三郎の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天保十年(1839) | 生まれる。出身地ははっきりしない |
| 元治元年(1864)十月 | 近藤勇の江戸での隊士募集に応じ、京都へ上る |
| 慶応元年(1865) | 新選組の屯所が壬生から西本願寺へ移る |
| 慶応二年(1866)二月 | 一橋家の家臣・原口某と組んで無断で金策し、隊を抜ける |
| 慶応二年 | 追っ手に但馬国気多郡江原村で捕らえられ、新選組に引き渡される |
| 慶応二年六月二十三日 | 屯所で、大勢の隊士が見守るなか切腹。二十八歳。光縁寺に葬られる |
柴田彦三郎を読み解く
破った掟は二つ
新選組の隊規としてよく知られる五か条には、「局を脱するを許さず」と「勝手に金策いたすべからず」が並んでいます。柴田は、無断の金策と脱走という二つを一度に破ったことになります。ただし、この五か条を「局中法度」と呼ぶのは、昭和の初めに子母澤寛が『新選組始末記』で紹介してから広まった言い方です。当時の隊の中で、どこまで条文の形で示されていたのかははっきりしません。
人相書まで作った追跡
追っ手は、柴田の人相書を用意して後を追ったと伝わります。名前が分かっているのは、内海次郎・三井丑之助・松本喜次郎・近藤芳助らです。江原村は京都から山陰道を北西へ進んだ先の、いまの兵庫県豊岡市日高町にあたります。京から遠く離れた但馬の村まで追いかけて連れ戻しているところに、脱走を決して見逃さないという隊の姿勢が表れています。
「見せる」切腹
柴田の切腹は、屯所で大勢の隊士の前で行われました。同じ慶応二年の二月には、勘定方の河合耆三郎も切腹を命じられています。屯所が西本願寺に移り、隊士の数が大きく増えたころです。新しく入った隊士が多いなかで、掟を破った者がどうなるかをはっきり見せることが、隊をまとめる手段になっていたと考えられます。
はっきりしないこと
柴田の出身地や、組んだ一橋家の家臣・原口某が何者だったのかは分かっていません。なぜ金が要ったのかも伝わっていません。
新選組で切腹や粛清によって亡くなった隊士は、新選組の切腹・粛清一覧にまとめています。柴田が眠る寺については光縁寺に眠る新選組隊士たちもご覧ください。
柴田彦三郎の一件をさらに掘り下げる
なぜ「一橋家の家臣」が京都にいたのか
柴田と組んだのは一橋家の家臣だったと伝えられます。一橋家は徳川将軍家の一門で、当主の一橋慶喜は元治元年から禁裏御守衛総督として京都に常駐していました。御所の守りを預かる慶喜のもとには多くの家臣が集まっており、京都の町で新選組の隊士と一橋家の者が知り合う機会は少なくなかったはずです。
慶喜は慶応二年十二月に十五代将軍となります。柴田が脱走した慶応二年の春は、まだ一橋家の当主として京都にいた時期です。新選組と同じく京都の治安にかかわる立場の家中の者と組んだことが、金策をしやすくしたのか、あるいは話を大きくしたのか—相手の原口某の素性が分からない以上、そこまでは言えません。
但馬という逃げ道
柴田が捕まった但馬国気多郡江原村は、京都から丹波を抜けて山陰へ向かう道筋にあります。京都から見れば山を越えた先で、身を隠すにはよい土地と考えられていたのかもしれません。実際、禁門の変のあと新選組や幕府の探索を逃れた長州の桂小五郎(木戸孝允)も、同じ但馬の出石に潜んでいました。
ただ、新選組はその但馬まで追っ手を送りこみ、柴田を連れ戻しました。脱走した者が京都の外へ出れば逃げ切れる、という時代ではすでになかったことが分かります。
脱走した隊士はどう扱われたか
新選組を抜けた隊士の扱いは、人によってかなり違いました。
| 隊士 | いつ | その後 |
|---|---|---|
| 山南敬助 | 慶応元年二月 | 大津で連れ戻され、切腹 |
| 柴田彦三郎 | 慶応二年 | 但馬で捕らえられ、屯所で切腹 |
| 三浦啓之助 | 慶応二年〜三年ごろ | 佐久間象山の子。脱走したが追及されず、明治まで生きる |
総長だった山南でさえ切腹を免れなかった一方で、佐久間象山の遺児だった三浦啓之助は、脱走しても追われることはありませんでした。三浦の後ろには会津藩や象山の縁者がいたためと考えられます。後ろ盾を持たない平隊士の柴田は、掟どおりに裁かれる側でした。掟は同じでも、それがどこまで厳しく当てはめられるかは、隊士の立場によって違っていたのです。
見届けた隊士たちの目
大勢の前での切腹は、新しく入った隊士たちに強い印象を残したはずです。柴田が加わったのと同じ元治元年の江戸募集では、伊東甲子太郎の一派も入隊しています。伊東らは翌慶応三年に隊を離れますが、それは脱走ではなく、御陵衛士として正式に分かれるという形をとりました。掟を破らずに隊を出る道を探ったその慎重さも、柴田のような例を見ていたからこそだったのかもしれません。
柴田彦三郎と関わりの深い人たち
柴田彦三郎のゆかりの地
- 西本願寺(京都市下京区)—当時の屯所。
- 光縁寺(京都市下京区)—葬られた寺。多くの隊士が眠っています。
参考にした資料:子母澤寛『新選組始末記』、新選組の名簿類、光縁寺の過去帳にもとづく諸研究、Wikipedia「柴田彦三郎」。
但馬まで逃げた三百キロ
柴田が捕らえられた江原村は、現在の兵庫県豊岡市日高町江原にあたります。山陰の内陸で、京都からは直線でも二百キロ近く、街道をたどれば三百キロに近い道のりです。追手が但馬まで踏み込んだという事実そのものが、隊の脱走者に対する執念を物語っています。
追手に加わった一人が近藤芳助でした。この人はのちに明治を生き延び、議員仲間へ宛てた手紙という形で新選組の日々を書き残しています。脱走者を追った側の隊士が、後世に証言を残す側になったわけです。柴田を斬った側の記録が残り、斬られた柴田の言葉は残っていません。隊内の処断をめぐる記録の偏りが、ここにはっきり出ています。
新選組をもっと知る本
無断の金策を咎められて斬られたという柴田の一件は、隊の規律の厳しさを示す例です。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』は、その厳しさがどう伝えられてきたかを知る二冊です。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:篠原泰之進(諸士取調役兼監察)
次の隊士 ▶:島田魁(諸士取調役兼監察)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

