蟻通勘吾【新選組隊士 平隊士 幕末】

蟻通勘吾
職名 平隊士
出身 讃岐高松
終焉場所 函館山攻防戦
終焉方法 戦死

文久三年に入隊し池田屋事件・三条制札事件などに出勤。
鳥羽伏見の戦い以後も離隊せずに蝦夷まで転戦。
最後は函館山の攻防戦で戦死しました。

三条木屋町の池田屋跡に掲げられた「池田屋騒動」の説明看板(京都市中京区)
三条木屋町の池田屋跡に掲げられた「池田屋騒動」の説明看板(京都市中京区)(現地取材の記事・筆者撮影)
目次

蟻通勘吾をもっと深く—文久三年から箱館まで、六年を通した平隊士

新選組の隊士で、結成の年から最後の日まで在籍し続けた人は多くありません。局長も副長も途中で欠けました。この蟻通勘吾は、平隊士のまま六年を走り抜けています。

讃岐高松から、壬生へ

天保十年、讃岐国高松(高松藩)の生まれ。文久三年六月ごろ、二十五歳で壬生浪士組に入隊しました。同年八月十八日の政変にも出動しています。

行軍録では一番隊。沖田総司の次に名が記されています。役職には就かず、終始平隊士でした。

主要な事件に、ほぼ全部出ています

  • 池田屋事件(元治元年六月)—井上源三郎の六番隊に所属。報奨金十七両
  • 三条制札事件(慶応二年九月)—三番組で出動。報償は金千疋
  • 天満屋事件(慶応三年十二月)—原田左之助隊で、斎藤一・大石鍬次郎らと護衛

慶応三年の幕臣取り立てでは、平士として見廻組並御雇の格を得ています。

白河で瀕死、それでも蝦夷へ

慶応四年閏五月一日、白河口の戦いで瀕死の重傷を負いました。会津をめぐる戊辰最大の激戦地です。

普通ならここで終わりです。ところが回復すると、土方歳三に従って蝦夷へ渡りました。

そして明治二年五月十一日、箱館総攻撃の日に戦死します。享年三十一。土方歳三が一本木関門で倒れたのと、同じ日です。最期の地は箱館山の上とも弁天台場とも伝わり、諸説あります。遺体は函館の大円寺に葬られたとされます。

この一人分の履歴が、新選組そのものです

壬生で結成に加わり、池田屋で十七両を受け、三条制札で張り込み、天満屋で護衛に立ち、白河で瀕死になり、それでも蝦夷へ渡って、土方と同じ日に死ぬ。

新選組の六年間を、一人の平隊士がそのまま体現しています。局長や副長の名前だけでは見えてこないものが、こういう隊士の履歴には残っています。

壬生の八木邸の門前(京都市中京区)
壬生の八木邸の門前(京都市中京区)。新選組が最初に屯所を置いた家です(現地取材の記事・筆者撮影)

受け取った金の額を、並べてみます

池田屋でも三条制札事件でも褒賞を受けていますが、その額がずいぶん違います。池田屋では十七両。三条制札事件では「千疋」でした。この千疋がいくらなのかが分かりにくいので、換算しておきます。

千疋は、二両二分です

金一分を百疋と数える習わしがあり、一両は四分ですから一両は四百疋にあたります。千疋はその二倍半、つまり二両二分ということになります。三条制札事件の褒賞金は、原田左之助や新井忠雄ら四人が二十両、安藤雅次郎や伊木八郎ら五人が十五両、物見の二人が七両二分、そして服部武雄・大石桑次郎・蟻通勘吾・池田小三郎ら六人と氏名を省かれた十人が千疋でした。最高額の八分の一です。当日の持ち場が、橋のたもとで斬り合う組と、少し離れて構える組とに分かれていたということになります。なお疋の数え方には二十五文を一疋とする流儀もあって、そちらで読むと額が倍以上変わりますが、褒賞金の総額が二百両という枠に収まるのは一分=百疋の読みのほうです。

池田屋の十七両と比べると

池田屋事件では土方歳三の隊に属して屋内へ斬り込み、十七両を受けました。二年後の制札事件が二両二分ですから、七倍近い開きがあります。同じ隊士が同じ隊にいて、出動のたびに額が変わる—褒賞というのは働きぶりへの評価であると同時に、その日どこに立っていたかの記録でもあったわけです。

板橋の碑では、戦死者の側に名があります

東京都北区滝野川の新選組供養塔に、蟻通勘吾の名が刻まれています。この碑は明治九年に永倉新八が発起人となり松本良順の協力を得て建てたもので、右側面に三十九名、左側面に六十八名、そのほか新選組の歩兵三名を加えて百十名が刻まれています。右側面が戦死した者、左側面が病死や変死した者という読み方があり、蟻通の名は右側面にあります。明治二年五月十一日、箱館山の攻防で死にました。文久三年に壬生へ入ってから六年、新選組の初めから終わりまでを通した隊士です。

池田屋事件の夜に出動した隊士の顔ぶれは、池田屋事件に出動した新選組隊士—近藤隊の十人と、駆けつけた土方隊・井上隊にまとめています。

慶応二年の三条制札事件については、三条制札事件とは—三条大橋の高札をめぐる新選組と土佐藩士の斬り合いにまとめています。

蟻通勘吾の生きた時代—讃岐高松藩と井伊家

高松藩の出身 蟻通勘吾は讃岐の高松藩(松平家十二万石)の出身です。高松藩は水戸徳川家の分家で、藩主の松平頼聰は大老・井伊直弼の娘を妻に迎えていました。幕府に近い立場の藩だったのです。

戊辰戦争の高松藩 そのため鳥羽伏見の戦いで旧幕府側に兵を出した高松藩は、新政府から朝敵とされ、土佐藩などの兵に囲まれて降伏しました。蟻通は新選組の古参の隊士として、鳥羽伏見から箱館まで戦い抜き、箱館で戦死しています。故郷の藩が降伏したあとも、蟻通は旧幕府の側で戦い続けたのです。

文久三年から箱館まで、蟻通勘吾が見た隊の顔ぶれ

入隊したころの隊

蟻通勘吾が加わった文久三年、壬生浪士組は二十四人ほどで発足し、第一次の募集で三十六人あまりとなった小さな隊でした。当時の主な顔ぶれは次のとおりです。

  • 局長:芹沢鴨、近藤勇、新見錦
  • 副長:土方歳三、山南敬助
  • 副長助勤:沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、斎藤一、平山五郎、平間重助、野口健司 ほか

六年のあいだに去っていった幹部たち

蟻通は文久三年から箱館まで、六年にわたって隊に残り続けた数少ない隊士の一人です。そのあいだに、京都で隊を率いた幹部たちは次々と隊を去りました。主な幹部のその後は次のとおりです。

  • 近藤勇(局長):慶応四年四月、流山で投降し、板橋で斬首
  • 沖田総司(一番組長):慶応四年五月、江戸で病死
  • 井上源三郎(六番組長):慶応四年一月、淀千両松で戦死
  • 永倉新八・原田左之助:慶応四年三月に隊を離れ、靖兵隊を結成。原田は上野戦争で負った傷がもとで死去
  • 斎藤一:会津に残って戦う
  • 土方歳三(副長):箱館政権の陸軍奉行並となり、明治二年五月十一日に戦死

参考資料:Wikipedia日本語版「蟻通勘吾」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。

新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)

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