荒木田左馬之助【新選組隊士 国事探索方 幕末】

荒木田左馬之助
職名 国事探索方
出身 不明
終焉場所 京都
終焉方法 暗殺

文久三年に入隊しました。
御倉伊勢武らと永倉新八、中村金吾の暗殺を謀るが失敗します。
長州の間者として「林信太郎」に結髪の最中に惨殺されました。

壬生の八木邸の門前(京都市中京区)
壬生の八木邸の門前(京都市中京区)。新選組が最初に屯所を置いた家です(現地取材の記事・筆者撮影)
目次

荒木田左馬之助をもっと深く—永倉新八を襲って、翌日に斬られました

役職は国事探索方。そして文久三年九月二十六日、屯所内で髪を結っているところを斬られました。

前日に、永倉新八を襲っています

文久三年九月二十五日、荒木田左馬之助は永倉新八と中村金吾を襲撃しました。失敗しています。

永倉は二番隊組長として池田屋で愛刀が刃こぼれするまで戦い、明治九年には板橋に近藤勇の供養塔を建て、晩年には新聞記者にだんだら羽織の由来を語り残した人です。その永倉を、隊内の人間が殺そうとした。

そして翌九月二十六日、林信太郎らによってスパイ容疑で斬殺されました。髪を結っている最中だったと伝わります。天保九年ごろの生まれとされますから、二十五、六歳でしょうか。出身は分かっていません。

「長州の間者だった」という話

荒木田については、長州藩の桂小五郎の命を受けて間者として入隊したと言われています。御倉伊勢武らと共謀していたとも。

ただし、これは真偽が確認されていません。「そう言われている」以上のことは書けません。

八日前に、芹沢鴨が斬られています

日付を並べると、この事件の見え方が変わります。

  • 文久三年九月十八日—八木邸で芹沢鴨が暗殺される
  • 九月二十五日—荒木田が永倉を襲撃、失敗
  • 九月二十六日—荒木田、屯所で斬殺される

芹沢暗殺のわずか八日後です。そのため、局長暗殺の罪も荒木田に着せられたのではないかという見方があります。芹沢を斬ったのは土方歳三・沖田総司ら近藤派で、表向きは「賊の仕業」とされました。その「賊」を用意する必要があった、ということです。

断定はできません。ですが、局長が暗殺された週に、間者とされた隊士が屯所内で斬られている—この並びは偶然にしては出来すぎています。

「洒落者」だったそうです

生前は洒落者として知られていた、と伝わります。髪を結っている最中に斬られたという最期と、どこか重なります。

文久三年の壬生では、家里次郎が四月に大坂で切腹させられ、九月に芹沢鴨が斬られ、その八日後にこの人が斬られました。結成から一年たたないうちに、これだけの人が隊の内側で死んでいます。

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JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)
JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)。明治9年、永倉新八らが建てました(現地取材の記事・筆者撮影)

襲われた側が、あとでこの人の名を石に刻みました

この隊士について、いちばん妙な巡り合わせを書いておきます。荒木田左馬之助が襲ったのは永倉新八でした。そして明治九年、東京の板橋に新選組供養塔が建ったとき、発起人になったのがその永倉新八です。碑の左側面に「荒木田左馬之助」の名があります。自分を殺そうとした男の名を、十三年後に自分の手で石へ刻んだことになります。

斬った側も、同じ碑にいます

荒木田を屯所で斬ったのは林信太郎らとされますが、その林信太郎の名も同じ左側面に刻まれています。襲った者、襲われた者、斬った者が、一つの石の上に並んでいるわけです。この碑には右側面に三十九名、左側面に六十八名、そのほか新選組の歩兵三名を加えて百十名の名があり、右側面が戦死した者、左側面が病死や変死した者という読み方があります。屯所で斬られた荒木田が左側面にあるのは、その読み方に沿っています。

永倉が何を考えて刻んだのか

永倉は明治になってからも新選組のことを語り続け、隊士たちの名を書き留めた記録をいくつも残しました。そこには脱走した者も、粛清された者も、自分と敵対した者も入っています。碑を建てるとき、誰を入れて誰を外すかは永倉が決められたはずですが、この人は自分を襲った男を外しませんでした。敵味方より、同じ隊にいたことのほうを重く見たのかもしれません。もっとも、碑の刻名には同じ人物と思われる名が二つ並んでいる箇所もあって、名簿そのものが完全に整理されたものとも言えません。

文久三年に芹沢鴨の一派と、長州の間者とされた隊士たちがどう消えていったかは、芹沢鴨と水戸派の最期—文久三年、壬生浪士組から消えた人々に年表でまとめています。

荒木田左馬之助の生きた時代—芹沢鴨の暗殺

文久三年九月 荒木田左馬之助が新選組にいた文久三年(1863)の九月、隊の内部では激しい粛清が続きました。九月十六日の夜、筆頭局長の芹沢鴨が壬生の八木家の屋敷で、酒に酔って寝ているところを襲われ、命を落とします。手を下したのは土方歳三・沖田総司らだったと伝えられます。

長州の間者 その数日後には、長州の間者として隊に入り込んでいたとされる隊士たちも斬られました。荒木田もその一人とされます。八月十八日の政変で長州が京都を追われたあと、長州は京都の情勢を探るために人を送り込んでいたのです。結成から半年あまりの新選組は、内と外の敵との戦いのなかで固まっていきました。

文久三年の壬生浪士組の顔ぶれ

二つの派が並んだ隊

荒木田左馬之助が加わった文久三年、壬生浪士組には、芹沢鴨・新見錦らの水戸の一派と、近藤勇・土方歳三らの試衛館の一派が並び立っていました。隊ははじめ二十四人ほどで発足し、第一次の募集で三十六人あまりとなります。このころの主な顔ぶれは次のとおりです。

  • 局長:芹沢鴨、近藤勇、新見錦
  • 副長:土方歳三、山南敬助
  • 副長助勤:沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、斎藤一、平山五郎、平間重助、野口健司 ほか

この年の九月、芹沢鴨が暗殺されると、隊は近藤と土方を中心とする体制に変わります。荒木田の運命も、この隊の内側の争いの中で決まっていきました。

参考資料:Wikipedia日本語版「荒木田左馬之助」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。

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