沖田総司【新選組隊士 一番隊隊長 幕末】

沖田総司
職名 一番隊隊長
出身 江戸
終焉場所 江戸(千駄ヶ谷説・今戸説)
終焉方法 病没
10歳前後より天然理心流試衛館の門人となります。 19歳で免許皆伝となり剣客としての頭角を現します。 近藤勇は次期天然理心流5代目宗家に沖田を考えていたと言われています。 その後近藤、土方の結成した新選組に参加し一番隊長となります。 池田屋事件に結核で倒れその後は治療に専念します。 鳥羽伏見の戦いにも参加できず、その後江戸に帰り、慶応四年五月に病死しました(亡くなった場所は千駄ヶ谷説と今戸説があります)。
沖田総司の肖像画
沖田総司の肖像画(Wikimedia Commons、パブリックドメイン)
目次

天才剣士とうたわれた一番隊組長

沖田総司は、天然理心流の剣の才に恵まれ、若くして塾頭を務めた新選組屈指の剣客です。近藤勇からは流派の後継者候補と目されたほどで、明るい性格と稽古での容赦のない鋭さをあわせ持っていたと伝えられます。新選組では一番隊組長・撃剣師範として隊の武力の中心を担い、「三段突き」と呼ばれる神速の突き技の逸話でも知られます。

天然理心流の道場「撥雲館」の跡(東京都調布市)
天然理心流の道場「撥雲館」の跡(東京都調布市)。近藤勇が育った多摩の道場です(現地取材の記事・筆者撮影)

病に倒れ、若き最期

しかし沖田は肺の病(労咳=結核)に冒され、池田屋事件のころから体調を崩していきます。やがて第一線を退いて療養に専念し、鳥羽・伏見の戦いにも加われぬまま江戸へ戻りました。そして戊辰戦争のさなか、江戸で療養の末に二十代半ばの若さで世を去ります。病がなければ幕末最強の剣士の一人として名を残したはず―そう惜しまれる、悲運の天才剣士です。

三条木屋町の池田屋跡に掲げられた「池田屋騒動」の説明看板(京都市中京区)
三条木屋町の池田屋跡に掲げられた「池田屋騒動」の説明看板(京都市中京区)(現地取材の記事・筆者撮影)

沖田総司をもっと深く—池田屋で血を吐いたのか、という問題

この人には、二重の像があります。史料に残る沖田総司と、昭和以降につくられた沖田総司です。まずそこを分けます。

「喀血して倒れた」は、どこから来たのか

池田屋で斬り合いの最中に血を吐いて昏倒した—あまりに有名な場面です。ですが、この描写の初出は子母澤寛『新選組始末記』(昭和三年)です。

一次史料にあたる近藤勇の書簡にも、島田魁の日記にも、喀血の記述はありません。永倉新八の『新撰組顛末記』にも、「昏倒した」とあるだけで喀血は出てきません。

では倒れたこと自体は嘘かというと、そうではありません。平成十年に発見された永倉直筆の『浪士文久報国記事』に、はっきり書かれています。

沖田総司病気にて会所へ引き取る

「戦闘中に倒れて離脱した」は史実。「血を吐いた」は創作。ここが切り分けです。近年は暑気あたりだったのではないかという説も出ています。

労咳の発症は、いつだったのか

元治元年の池田屋で発症していたとすると、慶応四年五月の死まで四年あります。結核の経過としては長すぎるという指摘があります。

もうひとつの説が、小島鹿之助『両雄士伝』の「丁卯二月罹疾」—慶応三年二月の発症です。死までおよそ一年で、医学的にはこちらのほうが自然です。

実際、池田屋の翌月には禁門の変に出動し、元治二年二月には山南敬助の介錯も務めています。周囲に肺病を感じさせる状態ではありませんでした。

同時代の人が見た沖田総司

ここが、いちばん意外なところかもしれません。

同時代の証言に残る沖田の容貌は、「色黒」「肩の張り上がった」「猫背」「長身」「笑うと愛嬌がある」というものです。美男子という評は出てきません。

よく見かける肖像画は昭和四年に描かれたもので、生前の写生ではありません。美男子像が定着するのは1930年代の映画からで、「薄幸の天才美剣士」という像は1970年代以降に固まりました。司馬遼太郎が描いたさわやかな青年像は、作家の創造です。

白河藩士の子、しかし江戸生まれ

父は陸奥白河藩士・沖田勝次郎、足軽小頭。ただし総司が生まれたのは江戸の白河藩屋敷で、白河の出身ではありません。生年は天保十三年説と天保十五年説があります。

父は弘化二年に死去。姉のミツが婿を迎えて沖田家を継いだため、総司は家を継げない立場で試衛館へ出されました。九歳のころ、内弟子としてです。そして若くして塾頭になります。

面白いのは義兄・沖田林太郎の立場です。弟は京都の新選組、義兄は江戸の新徴組。同じ浪士組から分かれた二つの組織に、義理の兄弟が分かれて属していました。

姉のミツは明治四十年、満洲で亡くなっています。享年七十五。弟の死から三十九年生きました。

墓碑に刻まれた免許

沖田家の墓碑には「北辰一刀流免許皆傳 天然理心流免許皆傳」と刻まれています。ですが北辰一刀流の免状は実物が確認されていません。後世に箔をつけるために刻まれたのではないか、という見方が有力です。

どこで死んだのかも、割れています

没日は慶応四年五月三十日。死没地には二説あります。

  • 千駄ヶ谷・植木屋平五郎宅—子母澤寛による。平成七年に近藤勇五郎が明治二十二年に記した史料が見つかり、こちらが有力に
  • 今戸八幡—永倉新八の『同志連名記』に「江戸浅草今戸八幡 松本順先生宿にて病死」

享年も墓碑の二十四、沖田家文書の二十五、『両雄士伝』からの逆算の二十七と、三説あります。これほど有名でありながら、生年も没地も享年も定まっていないのです。

漫画・ゲームの沖田総司と、史料の沖田総司

漫画やゲームの沖田総司には、決まって出てくる「三つの道具」があります。必殺の三段突き、名刀・菊一文字、そして黒猫です。どれも実在の沖田とどこまで結びつくのかを見ていきます。

三段突き—「一つの技に見えた」という話

三段突きの話のもとは、子母澤寛が古老の話を集めた『新選組遺聞』です。日野の佐藤家に伝わった話として、沖田の突きは踏み込みの足拍子が三つなのに一つに聞こえ、三本の突きが一つの技にしか見えなかった、と書かれています。

つまり伝わっているのは「速すぎて一度に見えた」という見た人の印象で、一振りで三回刺す必殺技の名前ではありません。天然理心流には突きを重ねて繰り出す教えがあり、沖田だけの技というより流派の稽古の型だったのではないか、という指摘もあります。

菊一文字—史料には出てきません

池田屋事件のあと、近藤勇が郷里に送った手紙には、沖田の刀は切っ先(帽子)が折れた、と書かれています。沖田が実戦で刀を振るった、確かな記録のひとつです。

一方で、鎌倉時代の名刀・菊一文字則宗を持っていたという話は、史料では確かめられません。広く知られるようになったのは、司馬遼太郎の短編「菊一文字」(『新選組血風録』所収)からです。加州清光や大和守安定を差していたという話も伝わりますが、これも後の伝承が中心です。

黒猫—最期の庭の話

千駄ヶ谷の植木屋の離れで療養していた沖田が、庭に来る黒猫を斬ろうとして斬れず、「ああ、斬れない」と嘆いた—という有名な場面も、子母澤寛の聞き書きが出どころです。子母澤の創作ではないかという見方もあり、史実として確かめられる話ではありません。

沖田総司と関わりの深い人たち

  • 近藤勇—試衛館の師で、局長。沖田を天然理心流の後継者候補と見ていたといわれます。
  • 土方歳三—試衛館以来の仲間。副長として隊を締めた人です。
  • 山南敬助—元治二年、脱走の末に切腹した総長。その介錯を務めたのが沖田でした。
  • 井上源三郎—同じ試衛館の兄弟子で、六番隊組長。
  • 芹沢鴨—初期の局長。文久三年九月の暗殺に、沖田も加わったとされます。
  • 永倉新八・斎藤一—ともに剣の腕で並び称された組長。永倉の書き残したものは、沖田の最期の場所を知る手がかりにもなっています。

沖田総司のゆかりの地

  • 試衛館(東京都新宿区市谷柳町のあたり)—九歳ごろから内弟子として暮らし、塾頭になった道場。
  • 壬生・八木邸(京都市)—新選組が屯所にした家。芹沢鴨が暗殺された場所でもあります。
  • 池田屋騒動の跡(京都市・三条小橋)—近藤とともに最初に踏み込んだ場所。
  • 「伝 沖田総司逝去の地」(東京都新宿区内藤町)—新宿御苑のそば、植木屋平五郎の離れがあったとされる場所に標柱が立っています(千駄ヶ谷説)。
  • 今戸神社(東京都台東区)—永倉新八の記録にもとづく今戸説の地。境内に碑があります。
  • 専称寺(東京都港区元麻布)—沖田家の菩提寺で、沖田の墓があります。墓所はふだん非公開で、毎年六月の「沖田総司忌」の法要のときにお参りできます(寺ではなく主催の会に確認してください)。

参考にした資料:子母澤寛『新選組始末記』『新選組遺聞』、永倉新八『新撰組顛末記』『同志連名記』、近藤勇の書簡(元治元年)、専称寺・沖田総司忌についての新選組関連団体の案内。

新選組の隊士たちの墓所は、新選組の墓所めぐりに地域ごとにまとめています。

池田屋事件の夜に出動した隊士の顔ぶれは、池田屋事件に出動した新選組隊士—近藤隊の十人と、駆けつけた土方隊・井上隊にまとめています。

新選組の役職と、それぞれを務めた隊士は、新選組の組織と役職—局長・副長・組長・監察・勘定方・伍長、誰が何を務めたのかにまとめています。

新選組の隊士たちが学んだ流派は、新選組隊士の剣術流派—天然理心流・神道無念流・北辰一刀流、誰が何を学んだのかにまとめています。

✎ 筆者のひとこと

「若くして病に倒れた天才剣士」という沖田の姿は、小説やドラマで広まった面も大きく、確かな記録は意外に少ない人です。

それでも、結核で亡くなった有為な人物は本当に多く、私の大好きな高杉晋作もそうでした。沖田の剣の腕が確かだったのは間違いないと思います。近藤勇が、天然理心流の道場の跡継ぎに考えていたともいわれるのですから。

新選組をもっと知る本

小説で新選組に入った人も、史実から入りたい人も読みやすい本です。『新撰組顛末記』は二番隊組長・永倉新八が晩年に語った回顧録、『新選組始末記』は昭和の初めに関係者の聞き書きをまとめた本で、どちらも後の小説やドラマのもとになりました。

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参考資料:Wikipedia日本語版「沖田総司」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。

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