| 行速丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 蒸気外輪 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 不明 | ||
| 写真 | 無 | ||

1860年アメリカで建造しました。1866年に長崎に於て7万5千$で購入しました。明治維新後も静岡藩徳川家に付属していたが、1870年明治政府に献上されました。なお、「行速」とは『春秋左氏伝』成公十六年の「其行速(その行くや速やかなり)」によります。
所属した江戸幕府と、洋式陸海軍への改革
この船・行速丸を運用したのも、江戸幕府です。幕末の幕府は、海軍だけでなく陸軍も洋式へと改めようとしました。
文久年間の軍制改革では、歩兵・騎兵・砲兵の三兵からなる西洋式の陸軍が編成され、海軍とあわせて幕府の軍事力の近代化が図られます。旧来の武士の戦い方から、銃と大砲による集団戦へ—その大転換の途上に、幕府は倒れました。行速丸は、その改革の時代の一隻です。幕府海軍は幕末の軍艦のページへ。
原名はフィンセン、売り主はボートウエン
この船の原名はフィンセンといい、万延元年の建造です。ただし建造地については、アメリカとする説と上海とする説があります。木造の外輪蒸気船で、長さ五十メートル半ほど、幅八メートル半ほど、百七十馬力。排水量は二百五十トンとも三百九十トンともされます。慶応二年八月に長崎で、ボートウエンという人物から七万五千ドルで買いました。
名の由来について
「行速」が『春秋左氏伝』の成公十六年から取られたという話については、原典に確かに「其行速、過險而不整」という一節があります。ただし船の名がここに由来すると明記した資料は事典の類にしか見あたらず、幕府の船で漢籍から名を取った例をほかに確かめることもできませんでした。
最後の取引
静岡藩から明治政府へ献じられたあとの行方は、はっきりしています。明治三年九月八日に暴風雨で第三台場の浅瀬に乗り上げて右舷を傷め、明治四年五月の検査では、八千両かけて直しても寿命は五年ほどと見積もられました。そして明治四年七月十二日、政府がイギリス人のバチェルダから東京丸を十六万円で買う際に、代金の半分にあたる八万円分として飛龍丸・飛隼丸とともに引き渡されます。行速丸が実際に渡されたのは、七月二十二日でした。
行速丸を船の型と持ち主から読む
行速丸の推進は外輪(外車)で、両舷の大きな輪が水をかいて進みます。外輪船は浅い水でも走りやすい一方、輪が砲撃の的になりやすく、軍艦としては次第にスクリュー船に置きかわっていきます(外輪とスクリュー)。船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。
当サイトで紹介している江戸幕府の船は、この行速丸を含めて39隻あり、そのうち帆船は17隻です。同じ江戸幕府の船には、太平丸(輸送船)、第二長崎丸(スクーナー級輸送船)、第一長崎丸(輸送船)、千歳丸(バーク級輸送船)、千秋丸(バーク級商船)、神速丸(輸送船)、翔鶴丸(仮装軍艦)、順動丸(輸送船)などがあります。
持ち主の江戸幕府の幕末をふり返ると、幕府海軍。戊辰戦争では榎本武揚が艦隊を率いて箱館へ渡り、明治2年に降伏。行速丸も、そうした幕府の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。
同じころの幕府—海外渡航の解禁
鎖国の終わり
行速丸が長崎で幕府の船となった慶応二年(1866)の四月、幕府は学問や商売のために日本人が海外へ渡ることを許しました。二百年あまり続いた、日本人の海外渡航の禁止が解かれたのです。翌年には、旅券(パスポート)にあたる「御印章」の発行も始まりました。
海を渡る人々
それまでも薩摩や長州はひそかに藩士を留学させていましたが、これからは正式に海外へ出ることができるようになります。この年には幕府もイギリスへ留学生を送り、そのなかには若き日の中村正直や外山正一らが含まれていました。
要目の数字が、どれも二通りあります
この船の要目は、調べると三か所で資料が分かれます。建造地が上海とするものとアメリカとするもの、トン数が約二百五十トンと三百九十トン、馬力が百七十馬力と二百五十馬力。七万五千ドルという買値だけは一致しています。
馬力については、どちらの数字もそのまま今の馬力として読めません。当時の船の馬力は公称馬力といって、シリンダーの寸法から決まる目安の値です。十九世紀の技術年鑑は、公称馬力が指示馬力のおよそ六分の一だとしています。つまり実際の出力は公称の数字より大きいことになります。
新政府に渡ったあとの二つの出来事
静岡藩から献納されたのは明治三年四月で、兵部省が受領したのは同年七月五日です。改名はされず、幕府が付けた「行速丸」の名のまま兵部省の運輸船になりました。
その二か月後、明治三年九月八日に暴風雨で錨鎖が切れ、品川の第三台場の浅瀬に乗り上げています。幕末にペリー来航を受けて築かれた台場の浅瀬に、幕府の船が明治になってから乗り上げたことになります。そして明治四年七月二十二日、「東京丸」の購入費用の一部としてイギリス人に交付されました。



