| 伊藤主計 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 備前岡山 | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 離隊 | ||
慶応元年に入隊し、同3年に離隊。
以後の消息は不明です。
伊藤主計をもっと深く—備前岡山から来て、慶応三年に去りました
出身は備前岡山。岡山藩池田家三十一万五千石の地です。慶応元年に入隊し、慶応三年に離隊しました。
慶応三年に隊を出るということ
入隊から離隊までの二年間に何があったか、並べてみます。
- 慶応二年九月—三条制札事件
- 慶応三年三月—伊東甲子太郎ら十六名が御陵衛士として分離
- 慶応三年六月—新選組が幕府の直参に取り立てられる
- 同年六月十三〜十四日—茨木司ら四名が幕臣化を拒んで脱局、切腹
- 慶応三年十一月—油小路事件。伊東甲子太郎ら暗殺
- 同年十二月—墨染事件。近藤勇が狙撃される
慶応三年は、新選組がいちばん激しく揺れた年でした。伊藤主計がこの年のどの時点で去ったのかは分かっていません。ですが、隊を離れる理由には事欠かない一年です。
岡山藩は、この時期に動いていました
故郷の岡山藩は、鳥羽伏見のあと新政府側につきます。そして慶応四年正月、姫路藩追討軍として姫路城を接収しました。播磨の隣藩を攻める側に回ったわけです。
赤穂藩もこの姫路城攻めに加わっています。西国の諸藩が正月のうちに雪崩を打って官軍側へ動いたのが、この時期でした。
離隊のあとは分かりません
伊藤主計の消息は、慶応三年の離隊で途切れています。
新選組を離れた隊士の行方は、たいてい分かりません。上坂甲太郎も荒木信太郎も同じです。隊にいた期間だけが記録に残り、その前もその後も空白になる。隊士名簿というのは、そういうものです。
新選組隊士全456名情報
『英名録』の四十三人のなかにいたはずです
慶応元年に入隊したと上に書きましたが、資料によっては月と場所まで記されていて、慶応元年四月に江戸で入隊したとされます。そして天保十二年の生まれという記述もあります。この「慶応元年四月・江戸」という組み合わせには、意味があります。
『英名録』という名簿の中身
島田魁の遺品として霊山歴史館に伝わる『英名録』は、慶応元年の夏に作られた隊士名簿です。その内訳を、在隊していた六十二人と、同年四月に江戸で入隊した四十三人と、同じころ京坂で入隊した二十九人の、合わせて百三十四人と記す資料があります。伊藤主計の入隊の時期と場所は、この四十三人とぴたりと重なりますので、この名簿に名があった公算が高いと考えられます。ただし「載っている」と明記した資料を見つけたわけではありません。
百五十名と百三十四人は、食い違っていません
ついでに書いておきますと、この名簿については霊山歴史館の解説が「百五十名」とし、別の資料が「百三十四人」としていて、一見すると食い違って見えます。ところが百三十四人の資料は、末尾に異なる筆跡で芹沢鴨ら造反した隊士十六人が書き加えられている、とも記しています。百三十四に十六を足すと百五十です。つまり本体だけを数えるか、後から書き足された分まで含めるかの違いでした。名簿の一部の名の下には丸印があり、これは御陵衛士へ移った隊士を示すとされています。一つの名簿が、作られたあとで二度も書き足されているわけです。
去ったのは、幕臣になる直前でした
慶応三年六月以前に離隊した、という書き方は、同年六月の幕臣取立の名簿に名が見当たらないところから来ているとみられます。岡山藩池田家三十一万五千石の城下から出てきて、京で二年ほど隊にいて、身分が上がる直前に去った—記録から言えるのは、それだけです。
伊藤主計の生きた時代—備前岡山藩と閑谷学校
岡山藩の出身 伊藤主計は備前の岡山藩(池田家三十一万石)の出身です。岡山藩は江戸時代のはじめ、名君として知られた池田光政が藩政の基礎を築いた藩で、光政は庶民の子どもも学べる学校として閑谷学校を開きました。その講堂はいまも残り、国宝に指定されています。
幕末の岡山藩 幕末の藩主・池田茂政は徳川斉昭の子で、将軍慶喜の弟にあたりましたが、藩は戊辰戦争で新政府の側に立ちました。岡山出身の伊藤は、新選組を慶応三年(1867)に離れています。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
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新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

