| 伊藤鉄五郎 | |||
| 職名 | 伍長 | ||
| 出身 | 山城京都 | ||
| 終焉場所 | 白河城攻防戦 | ||
| 終焉方法 | 戦死 | ||
元治元年12月以前に入隊し三条制札事件に出勤。
鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還します。
その後、奥州白河小峰城の奪取戦に参戦し戦死しました。
目次
伊藤鉄五郎をもっと深く——白河で戦う姿が、絵に残っています
京都の出身。元治元年入隊。伍長、のちに差図役を務めました。
顔と、戦っている姿が残っている隊士
この人がほかの隊士と違うのは、絵に描かれていることです。
隊士・中島登が描いた『戦友姿絵』(市立函館博物館蔵)。戦死した新選組隊士二十六名と旧幕府兵らを追慕して描かれた絵巻で、縦三十五センチ、横八メートル余りあります。
そこに伊藤鉄五郎は「白河で戦っているところ」として描かれています。同じ絵巻には漢一郎もいます。
新選組の隊士名簿は複数の系統があって錯綜しており、大半は名前と役職しか伝わりません。そのなかで、どこでどう戦ったかまで絵として残っている人は、ごくわずかです。
鳥羽伏見、甲州勝沼、そして白河
元治元年——池田屋事件と禁門の変の年に入隊しました。京都出身ですから、市中で新選組を見て志願した口かもしれません。
戦歴は負け続けです。
- 慶応四年正月——鳥羽・伏見の戦い
- 同年三月——甲州勝沼の戦い
- 同年閏四月〜五月——白河口の戦いで戦死
没日は慶応四年五月一日ごろとされますが、閏四月二十五日説もあり、諸説あります。享年二十九。
白河口は会津藩と新政府軍が繰り返し衝突した戊辰最大の激戦地です。蟻通勘吾はここで瀕死の重傷を負い、回復して蝦夷へ渡りました。新井破摩男も白河で負傷しています。
墓については、誤認の指摘があります
新宿の西念寺に「伊東鉄五郎」の墓碑があるとされてきましたが、これは「伊奈鉄五郎」という別人の墓で、「奈」を「東」と読み違えたものだという検証が出ています。
この人自身の表記も「伊藤」「伊東」で揺れています。名前の読み違いひとつで、墓の主が入れ替わってしまいます。隊士の記録をたどるときに、いつもついて回る問題です。
新選組隊士全456名情報

