挙母藩/内藤家2万石:内藤文成 戊辰戦争では新政府軍に駿府警護のため一小隊を派遣した挙母藩

挙母藩 内藤家2万石 最後の藩主 内藤文成
目次

挙母藩の歩み

嘉永四年(1851年)、「内藤政優」に嗣子なく死去すると、井伊家から政優の甥にあたる「内藤政文」が養子として迎えられ第6代藩主となりました。安政六年(1859年)、洋式の軍政(英式銃陣法)が取り入れられ習練が行われました。慶応三年(1867年)には全国的に流行していた「ええじゃないか」が挙母でも起きています。

慶応四年(1868年)一月に「戊辰戦争」がはじまると、挙母藩は藩主が領国不在のまま新政府に対して恭順しました。三月には藩主「内藤文成」が帰藩し、四月に官軍の「東海道軍人馬兵食賄方」として駿府警衛のため一小隊を派遣しました。

同年七月、藩主「文成」は京の御所へ参内し、勤皇の意をあらためて表しました。明治二年(1869年)、「版籍奉還」により文成は挙母藩知事に就任しました。明治四年(1871年)の廃藩置県で挙母県となり、額田県を経て愛知県に編入されました。文成は明治七年(1874年)に家督を養子の政共に譲り、明治十七年に子爵となったのは政共でした。文成は明治三十四年(1901年)に亡くなっています。

三河挙母の内藤家

挙母藩は、三河国加茂郡(現在の愛知県豊田市)に置かれた二万石の藩で、挙母城(七州城)を居城とし、藩主は譜代の内藤家でした。矢作川の流れる三河内陸の地を治めた藩で、のちに自動車産業で発展する豊田の地の、江戸時代の姿にあたります。

駿府警護への派兵

戊辰戦争において挙母藩は新政府軍に従い、徳川宗家が移り住むことになった駿府(現在の静岡市)の警護のために、一小隊を派遣しました。譜代大名でありながら新政府方につき、旧主・徳川家の新たな土地の守りに人を送ったのです。小藩が新しい時代の秩序のなかで果たした役割の一つを示しています。

七つの国の山が見える城と、二つの隅櫓跡です

挙母城(七州城)の復元隅櫓
挙母城(七州城)の隅櫓(昭和に復元)
挙母城(七州城)跡の石垣と隅櫓
築城当時の石垣の上に建つ隅櫓

挙母城は、途中で場所を移しています

挙母藩の城は挙母城、別名七州城です。二代藩主内藤学文が城の移転を願い出て、安永九年(1780年)に着工し、六年余りで完成しました。七か国の山々を望むことから七州城と呼ばれます。石垣は築城当時のもので、隅櫓は昭和五十二年(1977年)に復元されました。

一方で、寛延二年(1749年)に内藤政苗が入ったときに幕府の命で挙母に新たな城郭を築いたとする資料もあり、築城の時期の説明は資料によって違います。移転の理由は矢作川の氾濫で、元の桜城から童子山へ移したとされます。

その名残として、豊田市は二つの隅櫓跡を市の史跡にしています。挙母城(桜城)隅櫓跡(元城町)と挙母城(七州城)隅櫓跡(小坂本町)で、どちらも昭和四十七年(1972年)二月二十四日の指定です。洞泉寺の挙母藩内藤家墓所も、平成十七年(2005年)三月三十日に市の史跡となりました。

崇化館と加茂一揆

藩校崇化館の設立は、天明七年(1787年)とする資料と、天明五年(1785年)とする資料があります。天保七年(1836年)には、一万人以上が加わったとされる加茂一揆が起きました。

最後の藩主文成と、子爵の政共

内藤文成は安政二年(1855年)に生まれ、安政五年に幼くして家督を継ぎました。戊辰戦争では尾張藩を通じて新政府に恭順し、食糧や人足を調えています。明治七年(1874年)に養子の政共へ家督を譲り、明治三十四年(1901年)七月三十一日、挙母の別邸「存心堂」で亡くなりました。子爵を受けた政共は工部大学校を出た人で、貴族院の子爵議員となっています。

藩は明治四年の廃藩置県で挙母県となり、額田県を経て翌年に愛知県へ入りました。

七か国の山を望む城は石垣を残し、元の城と新しい城の二つの隅櫓跡が、それぞれ市の史跡として残っています。

井伊直弼の兄が二人も藩主に—挙母藩の内藤家

矢作川の舟運の町「衣」

挙母(いまの愛知県豊田市)は、もとは「衣(ころも)」と書きました。慶長九年(1604年)に三宅康貞が陣屋を置いたのは、矢作川の水運と、岡崎・尾張・信濃へ通じる交通の要所を押さえるためでした。天和元年(1681年)に入った本多忠利が「挙母」と書くよう定めています。内藤家は寛延二年(1749年)に上野安中から移ってきた家で、家格は譜代、江戸城では帝鑑間に詰めていました。

養子が続いた家

内藤家は養子の多い家でした。二代の学文は紀州藩主・徳川宗将の四男です。四代の政成と五代の政優は彦根藩主・井伊直中の息子で、井伊直弼の兄にあたります。政優との縁組は、井伊家からの持参金を借金の整理に充てるためだったとも伝えられます。実の父から子へ家督が渡ったのは、七代の文成だけでした。六代の政文は、政成・政優の弟である井伊中顕の子で、井伊直中の孫にあたります。政文は馬の生産を奨励して自ら藩士に馬術を教え、オランダ式の軍制や西洋医学も取り入れています。

海軍造船大技士になった子爵

四代政成の十二男で、のちに子爵となった内藤政共は、イギリスのグラスゴー大学で船の工学を学び、海軍の造船大技士として小野浜造船所に勤めました。川崎造船所の嘱託も務めています。矢作川の舟運の町の殿様の家から、近代日本の造船を担う技術者が出たのです。

本丸跡は美術館に

挙母城(七州城)の本丸跡には、いま豊田市美術館が建っています(名鉄豊田市駅から徒歩約二十分)。井伊家との縁組、紀州家からの養子、そして造船技師の子爵。挙母藩は、小藩ながら幕末から近代への橋渡しをした家だったと思います。

挙母藩をもっと詳しく

三宅家の陣屋と、藩がなかった17年

挙母の地に最初に藩を開いたのは三宅家です。慶長9年(1604年)に三宅康貞が1万石で入り、それまでの衣城を廃して、いまの元城町のあたりに陣屋を構えました。陣屋を中心に7つの町ができ、これが挙母の町の始まりです。元和5年(1619年)に康信が伊勢亀山へ移されたあと、寛永13年(1636年)に康盛が1万2,000石で戻りますが、寛文4年(1664年)、康勝のときに三河の田原藩へ移りました。三宅家はその後、幕末まで田原を治めています。

三宅家が去ってから天和元年(1681年)までの17年間、挙母は幕府領となり、三河代官の鳥山家が治めました。鳥山家は陣屋を廃して郷倉を建て、堀を埋めて田にしています。道の拡張や養蚕の奨励、用水の整備も、この時期に進められました。

本多家の3代

天和元年(1681年)、石川藩から本多忠利が1万石で入り、ふたたび藩が置かれました。忠利は徳川四天王の一人・本多忠勝の曾孫で、寺社奉行も務めた人です。近くの伊保藩や足助藩も本多一族が治めており、西三河に本多家の領地が並んでいました。本多家は忠利・忠次・忠央の3代で挙母を治め、寛延2年(1749年)に内藤家と入れ替わります。最後の忠央は遠江の相良へ移り、のち宝暦8年(1758年)、美濃の郡上一揆をめぐる裁きにかかわって領地を取り上げられました。

安中から来た内藤政苗と4,000両の城

内藤家の初代・政苗は、上野の安中藩2代藩主・内藤政里の次男です。延享3年(1746年)に父の死で安中藩を継ぎ、寛延2年(1749年)2月6日に挙母へ移されました。所領は挙母のまわりだけでなく、遠江や美作にもありました。政苗は幕府から4,000両を受けて城を築こうとしましたが、一揆や洪水、藩内の争いで工事は進みませんでした。このあたりは中馬街道などの陸の道と矢作川の舟運で物や商いが行き交う土地でしたが、その矢作川はたびたび洪水を起こし、藩を悩ませ続けます。明和3年(1766年)に紀州家から迎えた学文に家督を譲り、享和2年(1802年)に62歳で亡くなっています。

1万人が立ち上がった加茂一揆

天保7年(1836年)9月、その年の凶作で米などの値段が跳ね上がるなか、加茂郡を中心に大きな一揆が起きました。9月21日、人々は旗本領の松平郷滝脇村(いまの豊田市)の石御堂に集まり、下河内村の辰蔵が頭取になったとされます。一揆は加茂郡一帯と額田郡の一部に広がり、240余りの町村、幕府領・5つの藩領・19の旗本領にまたがりました。足助などの酒屋・穀屋・質屋が打ちこわされ、人々は挙母の城下にも押し寄せています。藩主の政優は鉄砲隊を率いて矢作川の堤防で一揆勢を防いだとされ、岡崎藩などの兵も出て、9月25日ごろまでにしずめられました。人々が求めたのは、年貢を金で納めるときの換算相場の引き下げや物の値下げ、頼母子講(村の互助の積み立て)の休会などで、米の値下げなどは一時的に認めさせたとされます。

この一揆を記した渡辺政香の『鴨の騒立』には、「世直し」という言葉が早い時期に見られます。水戸藩主の徳川斉昭は、同じころの大塩平八郎の乱とともに、この一揆を国内の危機の例として挙げました。

幕末の兵備と動員の目安

ペリーが来航すると、挙母藩は独自に鉄砲の調練所を設けました。幕末の家臣は士族100戸、卒族200戸ほどでした。慶安2年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは1万石あたり235人を出すことになっており、挙母藩の2万石にあてはめると、およそ470人になります。ただし、この規定は案のままで発布されなかったとする説もあります。

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