信濃国松本(現在の長野県松本市)にそびえる松本城は、五重六階の天守が国宝に指定された「国宝五城」のひとつです。江戸時代には松平(戸田松平)家6万石の松本藩の居城となり、幕末には天狗党の乱への出兵や新政府への恭順など、激動の時代を経験しました。実際に松本城とその城下を歩いてきました。

松本城とは——戦国の深志城から国宝の天守へ
松本城の起源は戦国時代、永正年間(1504〜1520年頃)に信濃守護家・小笠原氏によって築かれた深志城にさかのぼります。天文19年(1550年)に武田氏の侵攻で一時落城しますが、天正10年(1582年)の武田氏滅亡後、小笠原氏が旧領を回復。天正18年(1590年)、徳川家康の関東移封にともない石川数正が入城すると、数正・康長父子によって天守をはじめとする城郭と城下町の整備が進められ、現在の松本城の基礎が築かれました。現存する天守は安土桃山時代末期から江戸時代初期に建てられたとされ、現存12天守のうち唯一の平城(ひらじろ)という珍しい形式です。黒漆塗りの下見板張りは昭和の大修理(1950〜1955年)の際に復元されたもので、明治5年(1872年)には天守が競売にかけられ解体の危機に直面しましたが、地元の市川量造らが天守で博覧会を開いて資金を集め、買い戻して守り抜いたという逸話も残っています。

幕末の松本藩——天狗党の乱から恭順へ
江戸時代の松本城には、石川家・小笠原家・戸田松平家などが入れ替わり、最終的に戸田松平家6万石の松本藩として明治維新を迎えました。幕末の藩主・松平光則は安政2年(1855年)に財政・軍制の改革に着手しますが、元治元年(1864年)の「天狗党の乱」では諏訪藩兵と共に中山道・和田峠で天狗党と交戦(樋橋戦争)し敗北。長州征討にも幕府方として参加したものの、いずれも後方支援にとどまり、一連の出兵で藩財政はさらに逼迫しました。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では佐幕か勤皇かで藩論が分かれましたが、東征軍が松本城に迫ると勤皇へと転じ、3万両を献上して恭順。以後は新政府軍の一員として宇都宮城の戦いや北越戦争・会津戦争にも従軍しました。明治2年(1869年)の版籍奉還で光則は松本藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で松本藩は幕を閉じています。

現地を歩いて感じたこと
実際に堀端に立つと、白漆喰と黒漆塗りの下見板が織りなすコントラストの強さに驚かされます。地元では親しみを込めて「烏城(からすじょう)」と呼ばれることもありますが、松本市教育委員会によればこの呼称が歴史的な文献に見えるわけではなく、姫路城の「白鷺城」に対比させる形で昭和40年代の観光案内が広めた比較的新しい呼び名だそうです。大手門跡では松本市のマスコットキャラクター「アルプちゃん」(甲冑ver.)が出迎えてくれ、歴史の重みだけでなく城下町らしい親しみやすさも感じられました。堀の水面に天守が映り込む姿は、写真で見る以上に静かで美しく、しばらく足を止めて眺めてしまいました。

アクセス(所在地)
松本城は長野県松本市丸の内4-1にあります。JR松本駅から徒歩約15分です。
まとめ
松本城は戦国期の深志城を起源とし、石川数正・康長父子の手で天守が築かれた国宝五城のひとつです。幕末には松平光則のもと天狗党の乱への出兵で財政が逼迫しつつも、最終的には新政府に恭順して激動の時代を乗り切りました。黒漆の天守が静かに水面に映る姿には、そうした歴史の重みが今も息づいています。各藩の詳しい歩みは全藩情報もあわせてどうぞ。
