岡崎藩/本多家5万石:本多忠民 幕末時に佐幕派・尊皇派に分裂した岡崎藩

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岡崎藩の歩み

岡崎藩第5代藩主「本多忠民」は財政改革を行ない、農村有力者と協力して藩政再建に当たりました。一方で忠民は京都所司代・老中として幕末の幕政に参与し、公武合体に尽力しました。しかしこのため、藩内では佐幕派と尊皇派で争い、脱藩者も出る騒動が起こりました。

岡崎藩/場所・アクセス・地図 本多家5万石:本多忠民 幕末時に佐幕派・尊皇派に分裂した岡崎藩【幕末維新写真館】

藩内の佐幕派の一部が遊撃隊に加わったとも語られますが確かな記録は見つかっていません。第6代藩主「本多忠直」は明治二年(1869年)の「版籍奉還」にて岡崎藩知事に任じられ、明治四年(1871年)の廃藩置県で岡崎藩は廃藩となりました。

岡崎藩/場所・アクセス・地図 本多家5万石:本多忠民 幕末時に佐幕派・尊皇派に分裂した岡崎藩【幕末維新写真館】

徳川家康生誕の地・岡崎

岡崎藩は、三河国(現在の愛知県岡崎市)に置かれた五万石の藩で、藩主は譜代の名門・本多家でした。【現地取材】徳川家康生誕の城・岡崎城を歩くは徳川家康が生まれた城として知られ、徳川発祥の地ともいうべき由緒ある土地柄です。それだけに、幕府にとっても格別の意味を持つ藩でした。

佐幕と尊皇に揺れる

幕末の岡崎藩は、藩主・本多忠民が老中を務めるなど幕府と深い関わりを持ちながらも、藩内は旧幕府を支持する佐幕派と、天皇を奉じる尊皇派とに分裂し、去就をめぐって揺れ動きました。徳川ゆかりの藩でありながら時代の大きな転換に直面したその姿は、譜代大名が抱えた幕末の苦悩をよく表しています。

藩主は、高松から婿に入った人でした

幕末の岡崎藩主・本多忠民は、讃岐高松藩主・松平頼儀の五男で、岡崎藩主・本多忠考の婿養子として天保六年五月二十四日に家督を継ぎました。文化十四年の生まれです。家督を継いだ翌年には三河加茂郡で百姓一揆が起こり、藩兵を出して鎮めています。幕府では弘化三年に寺社奉行、安政四年に京都所司代、万延元年に老中となって文久二年にいったん辞し、元治元年にふたたび老中、それも老中首座に就いて慶応元年に辞しました。明治十六年に六十七歳で亡くなっています。

脱藩者の話は、裏が取れませんでした

一点、正直に書いておきます。岡崎藩の佐幕派が遊撃隊に触発されて脱藩し行動をともにした、と語られることがありますが、遊撃隊の側の記録に岡崎藩の名は出てきません。遊撃隊は伊庭八郎や人見勝太郎ら三十六名で始まり、慶応四年閏四月三日に請西藩主・林忠崇と結んで三百名ほどにふくらみ、箱館まで渡ったのは九十余名とされますが、そのなかに岡崎の名が見あたらないのです。岡崎藩士の名簿にも脱藩者の記載はありませんでした。藩内が佐幕と尊皇に割れたこと自体は伝えられていますので、その先の具体は今後の課題です。

最後の藩主は、留学に出ました

六代・本多忠直は天保十五年の生まれで、明治二年二月十日に家督を継ぎました。その一週間後には和宮親子内親王の邸の警備を命じられています。同年六月に藩知事、明治四年七月十四日の廃藩置県で免官となり、その翌年の五月にはヨーロッパへ留学に出て、明治十一年十一月に帰国しました。三十七歳で亡くなっています。藩政では貧民の救済と、允文館・允武館という二つの学校の創設に力を入れました。

天守は幕末まで建っていました

岡崎城の天守は元和三年に完成した三重のもので、幕末まで残っていました。取り壊されたのは明治六年から七年にかけて、廃城令によるものです。天守のほか大手門や東隅櫓、土塀も撤去されました。明治八年に本丸と二の丸の跡が公園となり、いまの天守は昭和三十四年三月三十日に完工したものです。平成二十二年には東隅櫓が木造で復元されました。平成二十七年には菅生川端の石垣がおよそ四百メートルにわたって確認され、近世の城の川端石垣としては国内でも最長級とされています。城跡は昭和三十七年六月十五日に岡崎市の史跡となり、平成二十八年十二月二十六日に指定が追加されました。なお廃藩置県のあと置かれた額田県は、その県庁を岡崎城内に構えています。

岡崎藩をもっと詳しく

藩の成り立ち:五つの家が治めた城

家康の生まれた城でありながら、岡崎は江戸時代を通じて一つの家が治め続けた土地ではありません。天正十八年(1590年)の小田原攻めののち、家康が関東へ移ると、豊臣方の田中吉政が十万石で岡崎に入りました。吉政は慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、筑後柳河三十二万五千石へ移っています。

慶長六年(1601年)二月、上野白井から本多康重が五万石で入り、ここから岡崎藩が始まります。康重の家はのち六万石まで加増されました。正保二年(1645年)七月には三河吉田から水野忠善が五万石で入り、宝暦十二年(1762年)九月には下総古河から松平康福が五万四千石で入ります。そして明和六年(1769年)十一月、康福と入れ替わるかたちで、石見浜田から本多忠粛が五万石で入りました。この本多家が、本文にある忠民・忠直まで続く幕末の藩主家です。

先祖の戦国武将・本多忠勝

明和六年に入った本多家は、家康の重臣・本多忠勝の流れをくむ「本多平八郎家」です。忠勝は三河国額田郡蔵前(現在の岡崎市西蔵前町)の生まれとされ、天正十八年(1590年)に上総大多喜で十万石、慶長六年(1601年)に伊勢桑名へ移って十万石を与えられ、慶長十五年(1610年)十月に桑名で亡くなりました。忠勝の家は各地を移りながら続き、生まれ故郷の岡崎へ藩主として戻ってきたのは、忠勝の死から百六十年ほど後のことになります。

最後の藩主の生家と跡継ぎ

六代の本多忠直も、先代の忠民と同じく他家から迎えられた藩主でした。生家は信濃小諸藩の牧野家で、九代藩主牧野康哉の五男です。忠直は明治十三年(1880年)四月二十九日に亡くなり、家は先々代の本多忠考の長男・忠胤の子である忠敬が継ぎました。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、五万石のこの藩はおよそ千百八十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「岡崎藩」「本多忠勝」「本多忠粛」「本多忠直 (三河国岡崎藩主)」

場所・アクセス・地図

岡崎の現地を歩いた記録

岡崎藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。

残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。

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