岩国城は山口県岩国市横山にあった山城です。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いに敗れた「毛利輝元」は大幅に領地を減らされました。それに伴い家臣達も大幅に禄高を減らされ「吉川広家」は岩国の地に三万石として入城しました。
江戸時代の初め、岩国城は岩国領を治める吉川家の居城となりました。横山の山上の城は本丸を中心に、二の丸・北の丸などの曲輪を配し、山の麓には藩主の館である「御土居」が置かれました。

本丸には四重六階の天守がありましたが、一国一城令で城が廃されると天守も壊され、その後は麓の御土居が陣屋として使われ続けました。城と城下の間を流れる錦川には錦帯橋が架けられ、独特の景色をつくっています。城下町も、この錦帯橋から延びる道筋を軸にして整えられました。

幕末まで岩国藩はあくまで毛利家の支藩として扱われ諸侯に列することはできませんでした。なお、戊辰戦争では多くの藩士や諸隊が各地の戦線で戦に加わりました。現在、御土居跡は吉香公園として整備され、横山山頂には再建天守があります。
山頂の城は、わずか七年で壊されました
横山の山頂に城が建っていたのは、慶長十三年から元和元年までのわずか七年です。一国一城令で天守も櫓も壊され、幕府からはそのあと石垣も崩すよう命じられました。以後、岩国の政庁となったのは麓の御土居で、いまの吉香公園のあたりです。ですから幕末の岩国の人びとは、山の上に天守のある風景を見ていません。錦帯橋を渡って見上げると天守が目に入るという、いま広く知られたあの眺めは、昭和になってから生まれたものということになります。
いまの天守は、本来の天守台の上にはありません
現在の天守が再建されたのは昭和三十七年三月二十一日で、『天守構造図』という絵図をもとに東京工業大学の藤岡通夫が設計した鉄筋コンクリート造です。四重六階で、上の階が下の階より張り出す南蛮造という形をしています。ただし建っている場所は本来の天守台ではありません。麓から見えるようにするため位置をずらしてあり、その距離を約三十メートルとする資料と約五十メートルとする資料があり、方向も南とするものと東とするものがあって一致しません。本来の天守台は地中に埋もれて残っており、掘り出されたうえで古式穴太積という石の積み方のまま復元されています。発掘の年は、岩国市の文化財課の説明が平成六年、観光側の説明が平成七年に発掘復元と書いており、こちらも数字が揃っていません。
錦帯橋と城下町は、ひとつの景観として選ばれています
錦帯橋が架けられたのは延宝元年十月、三代の吉川広嘉のときです。翌延宝二年の洪水で落ちましたが同じ年のうちに架け直され、それから二百七十六年のあいだ流れませんでした。流失は昭和二十五年九月十四日の午前九時四十七分、キジア台風によるものです。名勝に指定されたのは大正十一年三月八日でした。錦帯橋から吉香公園にかけての一帯は、令和三年十月十一日に「錦川下流域における錦帯橋と岩国城下町の文化的景観」として重要文化的景観に選ばれ、城山もその範囲に入っています。
錦帯橋から城山までを歩いた記録は【現地取材】岩国城と錦帯橋を歩く—六万石を領しながら、幕末まで大名ではなかった吉川家にまとめています。
岩国藩と四境戦争の芸州口
長州の東の守り 岩国藩(吉川家)は、長州藩の東の端で安芸との国境を守る立場にありました。慶応二年(1866)の第二次長州征討(四境戦争)では、安芸から攻め込む幕府軍を迎え撃つ芸州口の戦いの最前線となり、岩国の兵は長州の諸隊とともに、彦根藩・高田藩の兵と戦いました(岩国城と錦帯橋の現地取材)。
戦いの結果 芸州口の戦いでは、洋式の銃を持つ長州軍が、古い装備の彦根藩などを撃ち破りました。一方、幕府の歩兵隊や紀州藩の兵は善戦し、戦いは一進一退となります。岩国の地は、四境戦争で長州の東の扉を守り抜いた場所でもありました。
山上の城と麓の土居、岩国城の構造
七年がかりの築城
吉川広家は慶長六年(1601年)に築城に取りかかりました。翌慶長七年に麓の居館「土居」が完成し、山上の城ができあがったのは慶長十三年(1608年)です。
尾根に並んだ三つの郭
岩国城は、標高約二百メートルの横山の山頂に築かれた山城です。尾根に沿って、二の丸・本丸・北の丸が並んでいました。天守は四重六階で、上の階が下の階より張り出す「唐造り」だったとされます。本丸の下には、幅19.6メートル、深さ10メートルの空堀が掘られていました。二の丸の下には、築城と同時に造られた大釣井という井戸が残っています。
藩として認められなかった吉川家
山上の城は、元和元年の一国一城令で取り壊されました。その後は、麓の土居が政務の場となります。吉川家は毛利家の家臣という扱いで、長く大名としては認められませんでした。正式に岩国藩となったのは、慶応四年(1868年)三月のことです。
幕末の当主・吉川経幹は、二度の長州征討で長州藩と幕府の間を取り持ちました。四境戦争では芸州口で幕府軍と戦っています。経幹は慶応三年三月に亡くなりましたが、毛利敬親の命で、その死はしばらく伏せられました。
岩国から出た人びと
岩国錦見の生まれの東沢瀉は、必死組(のちの精義隊)を組織した儒者です。栗栖天山・南部五竹とともに「三士」と呼ばれました。吉川家の家臣の子として生まれた玉乃世履は、慶応三年に日新隊を組織しました。明治に入って司法の道に進み、初代の大審院長となっています。
復興天守と、元の天守台
いまの天守は、昭和三十七年(1962年)に鉄筋コンクリートで建てられた復興天守です。もとの位置から約三十メートル南に建てられました。もとの天守台は平成七年(1995年)に発掘され、復元されています。麓の土居の跡は明治十八年に吉香公園となりました。園内には、明治十八年に櫓の跡へ建てられた錦雲閣が残っています。
場所・アクセス・地図
山口県岩国市横山



