大和五条藩の歩み
「松倉重信(松倉右近)」は「筒井順慶」のもとで、「島清興(島左近)」と共に筒井家の片腕と呼ばれた名将でした。重信の死後、松倉家は子の「松倉重政」が継ぐが、順慶の後を継いだ「筒井定次」とそりが合わず浪人となります。関ヶ原の戦いで重政は「徳川家康」に味方して軍功を挙げたことから、大和五條一万石を与えられ、五條藩が立藩しました。
重政は城下町づくりや諸役免除など、藩政の確立に尽力して商業町としての五條藩の基礎を整備しました。重政は「大坂の陣」においても徳川家康に味方して軍功を挙げたため、元和二年(1616年)に肥前島原藩四万石(四万三千石とする資料もあります)に加増移封され五条藩は廃藩となりました。
廃藩のあと—ここで天誅組が代官所を焼きました
松倉重政が元和二年(1616年)に肥前日野江へ移ったあと、五條の旧藩領は幕府領となりました。そして寛政七年(1795年)、大和国宇智郡五條村に五條代官所が置かれます。この代官所が、幕末に大きな事件の舞台となりました。
文久三年八月十三日(1863年9月25日)、攘夷親征の詔が発せられ、孝明天皇が神武天皇陵に参拝する大和行幸が決まります。これを機と見た一団が動きました。主将は公卿の中山忠光、総裁は土佐の吉村虎太郎、岡山の藤本鉄石、刈谷の松本奎堂。約四十名が堺から河内を抜け、千早峠を越えて大和へ入ります。
八月十七日、彼らは五條代官所を襲って焼き討ちし、代官・鈴木源内ら五名を殺しました。そして櫻井寺に本陣を置き、「五條御政府」の表札を掲げます。翌十八日には五條を「天朝直轄地」と称し、年貢半減を宣言しました。
ところが、その十八日の未明、京都では八月十八日の政変が起きていました。三条実美ら攘夷派の公卿が失脚し、大和行幸は中止。後ろ盾を失った彼らは、一夜にして逆賊となります。新政府を名乗ったその日が、逆賊に転落した日でした。
八月二十四日には十津川郷から千人ほどが集まって一時は膨れ上がりますが、二十五日からの高取城攻めで高取藩の砲撃を受けて潰走。吉村虎太郎は夜襲を試みて味方の誤射で重傷を負います。
九月十五日、忠光は解散を命じました。九月二十四日、鷲家口(いまの東吉野村)で那須信吾らが忠光を逃がすため決死隊となって討死。翌二十五日に藤本鉄石が討たれ、松本奎堂は自刃。二十七日、吉村虎太郎が鷲家谷で津藩兵に撃たれて果てました。逃れた中山忠光も、翌元治元年十一月に長州で絞殺されます。
五條代官所の跡は、いまの五條市役所の場所です。焼かれた代官所は元治元年に別の場所で再建され、その長屋門が五條市立民俗資料館として、天誅組を展示する館になっています。襲われた側の建物が、襲った側を語る館になったわけです。隣の史跡公園には「明治維新発祥の地」の碑が立ちます。
本陣となった櫻井寺には、代官の首を洗ったと伝わる「首洗鉢」がいまも残っています。
五條から島原へ—島原の乱を招いた松倉家
五條藩の松倉重政は、元和二年(1616)に肥前の日野江(島原)四万三千石へ移されました。重政は分不相応といわれるほど壮大な島原城を新たに築き、その費用や江戸城の普請の負担をまかなうため、領民に重い年貢を課します。さらに幕府の命を受けて、島原半島に多かったキリシタンを厳しく取り締まり、雲仙の熱湯を使った拷問などで多くの信者を苦しめました。
跡を継いだ子の松倉勝家の代になっても、重い年貢と弾圧は続きました。寛永十四年(1637)、凶作のなかでついに島原と天草の農民やキリシタンが立ち上がり、天草四郎を総大将にして原城に立てこもります(島原・天草一揆)。幕府は十二万もの軍勢を送り、総大将の板倉重昌が討ち死にするほどの激戦の末に、翌年ようやく鎮圧しました(三河中島藩)。
乱の原因をつくったとして、勝家は寛永十五年(1638)に領地を没収されたうえ、斬首されました。江戸時代を通じて、大名が切腹ではなく斬首という重い刑に処されたのは、この勝家ただ一人といわれます。五條で城下町づくりに力を入れた殿様の家は、二代のうちに江戸時代最大の一揆を招いて滅んだのでした。
島左近と並んだ父・松倉重信
重政の父・松倉重信(右近)は、大和の戦国大名・筒井順慶の重臣で、のちに石田三成に仕えて関ヶ原で戦死する島左近とともに、筒井家を支えた「右近・左近」と並び称されました。筒井家の二人の重臣の家は、一方は関ヶ原で西軍として散り、一方は東軍について大名となったことになります。
二見城と五條新町、ルソン攻めを夢見た藩主
筒井家臣から大名へ
松倉重政は筒井家の家臣時代、伊賀の梁瀬で8千石余を領していたとされます。五条では二見城を居城とし、慶長13年(1608)にその城下町として新町通り(五條新町)をつくりました。二見城の石垣の跡は川側から見ることができます。
重要伝統的建造物群保存地区
五條新町は平成22年(2010)に重要伝統的建造物群保存地区に選ばれました。町内の栗山家住宅(国の重要文化財)は慶長12年(1607)の棟札が残り、建てた年がわかる民家として最古級とされます。重政の時代と重なる建物です。五條は紀州街道と吉野川の舟運が交わる場所で、川には船着場の名残があります。
島原での重政
島原へ移った重政は、旧有馬氏の日野江城と原城を廃しました。寛永7年(1630)には長崎奉行・竹中重義とともにルソン攻めを幕府に願い出て偵察船を送りましたが、同年に急死しています。毒殺説もあります。家康の臨終の枕元に呼ばれた一人ともいわれます(矢橋藩)。
考察:町をつくった人と、乱を招いた人
五条では今も残る町並みをつくった重政が、島原では過酷な政治で乱の遠因をつくったと語られます。同じ人物の二つの顔が、二つの土地にまったく違う記憶を残しているのは興味深いことです。


