三河中島藩/板倉家5万石:板倉重矩 幕府要職を歴任し下野烏山藩へ移封のため廃藩

三河中島藩 板倉家5万石 最後の藩主 板倉重矩
目次

三河中島藩の歩み

「板倉重矩」は家督相続のとき藩庁を深溝から中島に移し三河中島藩一万石が立藩しました。重矩は万治三年(1660年)十一月に大坂定番に任じられて功を挙げたことから、一万石を加増されました。

寛文五年(1665年)十二月には老中に栄進し、翌年には上野国や武蔵国内などにおいて二万石を加増されました。寛文八年(1668年)には京都所司代に転任し、寛文十年(1670年)には老中に再任されるなど、要職を歴任しました。

これらの功績が認められて寛文十一年(1671年)二月には三河・上総国内などでさらに一万石を加増されました。寛文十二年(1672年)閏六月三日、重矩は三河中島から下野烏山藩に移封されここに三河中島藩は廃藩となりました。なお、重矩は幕閣として領内にいることが少なく、藩政は重臣の「池田新兵衛」がとり行っていたと伝わります。

老中を出した藩ですが、城を持たない大名でした

三河中島の藩庁は、いまの愛知県岡崎市中島町に置かれた陣屋です。西尾市の中島町ではありません。板倉重矩は老中を務めた時期も、城を持たない大名のままでした。老中在職中の無城大名というのは、なかなか珍しい形です。

前身は深溝です。寛永元年(1624年)に板倉重昌が一万一千八百石で深溝藩を立て、島原の乱で戦死しました。寛永十六年(1639年)に重矩が家督を継ぐとき、五千石を弟へ分けて一万石となり、藩庁を中島へ移します。深溝から中島までは北西へ七キロあまり、同じ西三河のなかの短い移動でした。寛文十二年(1672年)閏六月三日、重矩は下野烏山藩へ移り、中島藩は消えます。

中島の陣屋跡がいまどうなっているかは、確認できる資料を見つけられませんでした。板倉家ゆかりで確かなのは長圓寺です。板倉勝重が中島村の永安寺を改めて開いた一門の菩提寺で、寛永七年(1630年)、勝重の七回忌にあたって西尾の万燈山の麓へ移されました。勝重の廟所はいまも西尾市にあります。

幕末の中島は、岡崎市の郷土資料によれば岡崎藩本多家の領で、旗本小笠原氏の知行地や寺社領が入り交じっていました。西尾藩領とする根拠は見つかりません。その岡崎藩五万四百石の幕末の藩主は本多忠民で、京都所司代と老中を歴任し、公武合体に力を尽くした人です。藩内は佐幕と尊王に割れていました。

最後に板倉家のその後です。幕末に老中首座を務めた備中松山藩の板倉勝静と重矩は、同じ板倉勝重を祖とする同族ですが、系統は別です。しかも勝静自身は板倉の血筋ではなく、白河藩主松平定永の八男から婿養子に入った人でした。山田方谷を登用して藩の財政を立て直し、鳥羽伏見のあとは慶喜とともに江戸へ退き、奥羽越列藩同盟の参謀として転戦し、最後は五稜郭まで従っています。

名奉行・板倉勝重と、島原で散った重昌

中島藩の板倉家の祖・板倉勝重は、家康のもとで江戸町奉行、ついで京都所司代を十九年にわたって務め、公正な裁きで知られた人物です。のちに「大岡裁き」とならんで「板倉政要」として語り継がれる名判決の数々は、勝重とその子・重宗の京都所司代時代の話とされています。

勝重の次男・板倉重昌は、深溝藩主として大名になりました。寛永十四年(1637)に島原・天草一揆が起きると、重昌は幕府軍の総大将として九州へ派遣されます。ところが原城に立てこもった一揆勢の抵抗は激しく、攻めあぐねるうちに、幕府は老中・松平信綱を新たな総大将として送ることを決めました。面目を失うことを恐れた重昌は、信綱の到着前に城を落とそうと寛永十五年(1638)正月元日に総攻撃をかけ、自ら先頭に立って鉄砲に撃たれて討ち死にします。中島藩を立てた重矩は、この重昌の子でした。父の戦死の翌年に家を継ぎ、のちに老中と京都所司代を務めて、祖父・勝重と同じ道を歩んだのです。

幕末の板倉家

板倉一族は江戸時代を通じていくつもの大名家に分かれ、幕末には備中松山藩主の板倉勝静(かつきよ)が老中首座として十五代将軍慶喜を支えました。勝静は大政奉還の際にも慶喜のそばにあり、戊辰戦争では箱館まで旧幕府軍とともに行動しています。京都の治安を預かった名奉行の一族は、幕府の最後の日まで、その中枢にいたことになります。

場所・アクセス・地図

  • URLをコピーしました!
目次