矢橋藩/市橋家2万1300石:市橋長勝 越後三条藩へ加増転封のため廃藩

【藩名】
矢橋藩

【説明】
「中村一忠」が伯耆米子藩に入封したとき、八橋には一族の「中村一栄」が入部しました。しかし慶長14年(1609年)に「中村一忠」が死去して中村氏が改易されると、伯耆国には諸大名が分散配置されることとなり、矢橋には「市橋長勝」が美濃今尾藩から2万1300石で入封し矢橋藩が立藩されました。

「大坂の陣」で軍功を挙げた長勝は、元和2年(1616年)8月に2万石を加増の上で越後三条藩に加増移封され、矢橋藩は廃藩となりその所領は因州池田氏の属領となりました。

【藩名の表記について】

このページは「矢橋藩」の表記で立てていますが、土地の名は伯耆国八橋(やばせ)、いまの鳥取県東伯郡琴浦町八橋です。本文にも「八橋には一族の中村一栄が入部」とあるとおりで、城も八橋城といいます。資料によって「矢橋藩」と書くものと「八橋藩」と書くものがあり、表記が定まっていません。地図は八橋の地に合わせてあります。

【廃藩のあと——幕末の八橋】

市橋長勝が元和二年(1616年)に越後三条へ移ったあと、伯耆国は鳥取藩池田家の領国となりました。八橋城は一国一城令で廃され、以後は陣屋を置く支配に変わります。

その八橋が幕末に軍事の場となります。鳥取藩は文久三年(1863年)から元治元年(1864年)にかけて、領内の重要な港九か所に台場を築きました。八橋もそのひとつです。外国船に備えた海岸防備で、日本海に面したこの一帯にずらりと砲台が並んだことになります。

このうち由良・境・淀江・橋津・浦富の五つが国の史跡に指定され、平成二十七年(2015年)には琴浦町の赤崎台場跡が追加指定されました。米子の淀江台場も同じ計画の一環です。八橋と米子は、幕末には同じ海防線の上に並んでいました。

なお赤崎台場は戦後の国道九号の工事で埋められましたが、平成二十六年の調査で三段構造の土塁が確認されています。

目次

市橋家のその後――近江仁正寺藩へ

矢橋(八橋)を離れた市橋長勝の子孫は、その後近江国仁正寺(西大路)藩1万7千石の藩主として続き、幕末の市橋長和の代まで家名を保ちました。長和は鳥羽・伏見の戦い後に新政府へ与し、藩名を西大路藩と改めています。八橋を出発点とした市橋家は、形を変えながらも明治維新までその家名を守り抜きました。

【場所・アクセス・地図】

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