西代藩の歩み
延宝七年(1679年)、近江国膳所藩第2代藩主「本多康将」の次男「本多忠恒」は、河内国錦部郡・近江国高島郡・甲賀郡において一万石を分与され、西代藩が立藩しました。第2代藩主「本多忠統」は正徳元年(1711年)、西代に陣屋を構えました。忠統は大番頭・寺社奉行と昇進し、享保十年(1725年)には若年寄に累進しました。享保十七年(1732年)、伊勢国神戸藩に転封となり廃藩となりました。
廃藩のあと—幕末の西代
まず場所についてです。西代藩の西代は、河内国錦部郡西代、いまの大阪府河内長野市西代町にあたります。
享保十七年(1732年)に本多忠統が伊勢神戸へ移ると、西代村は幕府の代官に引き渡されました。このときの引き継ぎ記録が「河州錦部郡西代村絵図」として河内長野市立図書館に残っています。西代村を除く河内の旧領は、そのまま伊勢神戸藩・本多家の知行地として幕末まで続きました。
幕末にこの地を通った軍勢があります。文久三年(1863年)の天誅組です。彼らは河内を抜け、楠木正成の首塚がある観心寺を経て大和へ向かいました。ただし西代村そのもので何かが起きたという記録は見つけられませんでした。
興味深いのは、廃藩そのものが芸能を生んだことです。本多忠統の転封に際し、その徳をしのんで西代神社に神楽を奉納したのが「西代神楽」の始まりと伝わります。いまも十月の秋季例祭で奉納され、市の指定無形民俗文化財になっています。藩は消えても、藩主を送り出した気持ちのほうが三百年近く残ったことになります。
陣屋跡はラブリーホールから長野小学校・長野中学校の一帯で、小学校の正門は陣屋門をイメージして整備されました。
陣屋に住まなかった初代、住んだ二代
初代 本多忠恒は、西代に住んでいません。延宝七年(1679年)六月十八日、父 康将の隠居にともなって膳所藩七万石のうち一万石を分与されましたが、居所は膳所のままで、参勤交代も江戸と膳所のあいだで務めました。領地へ赴く暇を得たのは天和二年(1682年)のことです。駿府加番、京都火消役、江戸本所火消役といった番方の役を歴任し、宝永元年(1704年)に江戸で亡くなりました。
陣屋を西代に構えたのは二代 忠統です。正徳元年(1711年)六月二十七日に江戸を発ち、七月十一日に河州西代着、十二月二十三日に新館へ移りました。立藩から陣屋の完成まで三十年以上かかっていることになります。
荻生徂徠に学んだ「猗蘭侯」
忠統は宝永元年十二月二十三日、十四歳で家督を継ぎました。小姓から大番頭(享保四年)、奏者番と寺社奉行の兼任(享保九年)、若年寄(享保十年)、勝手掛(享保十五年)と昇っています。
その一方で「猗蘭侯」と号した文人大名でもありました。荻生徂徠に学び、書画と儒学に通じ、茶名は宗範。享保十七年(1732年)四月一日、近江の領地と河内領のうち陣屋のある西代村を収公され、伊勢国河曲郡と河内国錦部郡で代地を与えられて神戸へ移りました。
幕末まで続いた「河内の神戸藩領」
幕末の神戸藩領のうち河内国錦部郡は、原村・長野村・日野村・清水村・天見村・流谷村・寺元村・鬼住村の八村でした。いまの河内長野市域の主要な村々が、伊勢の藩の領地として幕末まで続いたわけです。
西代神楽は河内長野市指定の無形民俗文化財で、昭和五十九年三月二十九日の指定です。西代神社の宵宮に地車と神輿が宮入りしたあと奉納され、演目は鈴の舞・銜之剣・四方掛・歌剣・吉野舞・扇の舞・玉の舞・神来舞・白獅子・花の舞の十曲。獅子役と囃子方は紺色の着物と茶褐色の袴、道化役だけが別の装束をまといます。型としては伊勢神楽の系統に属する神楽です。藩主が向かった先も、伊勢でした。

