佐和山藩の歩み
佐和山城は「織田信長」の時代から要衝と見なされ、特に信任の厚かった重臣「丹羽長秀」を城主としました。文禄四年(1595年)に「豊臣秀吉」のもとで五奉行の一人だった「石田三成」が近江水口から移封されて十九万四千石で入封しました。

三成の治世は善政にて民は豊かになり、「三成に過ぎたるものがふたつあり。島の左近(島左近)と佐和山の城」と言われるほどでした。「関ヶ原の戦い」で「石田三成」は滅亡しました。その後、佐和山には「関ヶ原の戦い」で武功を挙げた徳川四天王の一人「井伊直政」が十八万石で入封し、佐和山藩が立藩されました。しかし直政は2年後の慶長七年(1602年)に関ヶ原の戦いの傷がもとで死去しました。
家康はその後、直政の後を継いだ子の「井伊直継」に新たに彦根城を築城するように命じました。そして彦根城の完成と共に、佐和山藩は廃藩となりました。
三成の城の跡から、幕末最大の事件の当事者が出ました
佐和山城が廃されたのは慶長十一年(1606年)です。井伊直政は、領民が前の領主への思いを断ち切れないことを気にして、佐和山から西へ一・六キロほどの彦根山に新しい城を計画したとされます。ただし、これを同時代の史料で裏づけることはできませんでした。
資材の行方についても、よく言われる話に一つ誤りがあります。彦根城の天秤櫓を佐和山城からの移築とする説明を見かけますが、井伊家の記録『井伊年譜』は長浜の大手門の由と伝えます。佐和山城からとされるのは太鼓門櫓で、佐和口多聞櫓にもその伝えがあります。天守は大津城のものを、江戸城より低くするため三重に縮めて移したとされます。
その彦根城の主から、幕末最大の事件の当事者が出ました。彦根藩の井伊直弼です。直弼は井伊直中の十四男で、十七歳から三十二歳までの十五年を埋木舎で過ごしました。世に出る見込みのない部屋住みの暮らしです。
ところが嘉永三年(1850年)に兄の死で家督を継ぎ、安政五年(1858年)四月二十三日に大老となります。そして六月十九日、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印しました。八月からの安政の大獄で反対派を処断します。
安政七年(1860年)三月三日、桜田門外で水戸藩脱藩の十七名と薩摩藩士一名に襲われ、四十六歳で落命しました。年号が万延に改まるのはこの十五日後ですので、事件の当日はまだ安政七年です。
そのあとの彦根藩は苛烈でした。文久二年(1862年)、三十万石から十万石を削られて二十万石となり、預地五万石も取り上げられ、京都守護の家職まで奪われます。直弼の腹心だった長野主膳と宇津木六之丞は斬られました。
そして戊辰です。譜代の筆頭でありながら、彦根藩は譜代大名のなかで最も早く新政府への帰順を表明しました。慶応四年正月の鳥羽伏見では最初から新政府軍に属して東寺と大津を固め、のちに東山道の軍に加わって近藤勇の捕縛にも関わり、白河口から会津へ転戦しています。井伊の赤備えが官軍として東へ向かったわけです。
佐和山城の跡には建物も石垣もほとんど残りませんが、近年の調査で曲輪や堀、千貫井戸の跡が随所に確認されました。登り口は龍潭寺の門前で、その脇に石田三成の像が立ちます。山頂まで二十分ほど、彦根城と琵琶湖が一望できます。麓には天保十三年(1842年)に建てられた井伊神社があり、その本殿は彦根市の指定文化財です。
石田三成の最期と、残された血筋
関ヶ原の戦いに敗れた石田三成は、伊吹山中へ逃れましたが、数日後に捕らえられ、慶長五年(1600)十月一日、京都の六条河原で小西行長・安国寺恵瓊とともに処刑されました。居城の佐和山城では、父・正継や兄・正澄ら一族が城とともに滅びています。
それでも三成の血筋は途絶えませんでした。三成の娘の一人・辰姫は、豊臣秀吉の正室・北政所のもとで育てられたのち、陸奥の津軽家の当主・津軽信枚(のぶひら)に嫁ぎます。二人のあいだに生まれた信義は、のちに弘前藩の三代藩主となりました。三成の血は、本州の北の端の大名家に受け継がれ、幕末まで続いたことになります。また三成の子・重家は出家して命を許され、京都の寺で長く生きたと伝えられます。
佐和山藩主・井伊直継のその後
佐和山藩の二代目・井伊直継(直勝)は、彦根城の築城にとりかかった人ですが、病弱で家臣をまとめきれず、のちに家康の命で弟の直孝に本家を譲り、上野の安中へ移りました。この直継の家は、のちに越後の与板藩主となって幕末まで続いています(与板藩)。一方、弟の直孝が継いだ彦根の本家からは、幕末の大老・井伊直弼が出ました。三成の城を見下ろす佐和山のふもとで始まった井伊家は、二つの流れに分かれて、ともに徳川の時代の終わりを迎えたのでした。
佐和山藩をもっと詳しく
先祖の戦国武将・井伊直政
佐和山藩の初代・井伊直政は、永禄四年(1561年)二月十九日、遠江国井伊谷(いまの静岡県浜松市浜名区引佐町井伊谷)に近い祝田(ほうだ)で生まれました。天正三年(1575年)に徳川家康に見出されて小姓となり、「井伊万千代」と名を改めます。
天正十年(1582年)八月までには、滅んだ武田家の旧臣およそ百二十人が直政の配下に付けられました。兜や鎧などの装備をすべて赤で統一した、いわゆる「井伊の赤備え」です。直政は天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いで初めてこの赤備えを率いて武功を挙げ、名を知られるようになりました。家康の関東入りのあとは上野国箕輪で十二万石を与えられています。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、島津軍の柏木源藤に足を撃たれて落馬しました。それでも戦後は毛利輝元との講和交渉や、真田昌幸・信繁父子の助命に力を尽くしたとされます。
藩の成り立ちと終わり
関ヶ原の功により、直政は六万石を加えられて十八万石となり、近江国佐和山へ移りました。これが佐和山藩の始まりです。しかし直政は、慶長七年(1602年)二月一日、佐和山城で亡くなりました。享年四十二です。死因は関ヶ原で受けた鉄砲傷がもとの病とされます。
跡を継いだのは、天正十八年(1590年)に遠江国浜松で生まれた長男の直継(のちの直勝)でした。直継は慶長八年(1603年)から家康の命を受け、西国に備える拠点として彦根城の築城にとりかかります。慶長十一年(1606年)に城が完成すると、居城を佐和山城から彦根城へ移しました。こうして佐和山藩は、わずか数年で彦根藩に引き継がれる形で終わりました。藩が取りつぶされたのではなく、同じ井伊家が城だけを移したという点が、この藩の終わり方の特徴です。
本家と分家:彦根と与板の二つの井伊家
慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣で、直継は上野国安中の関所の警護を任されました。一方、出陣した弟の直孝が期待に応える働きを見せたため、冬の陣のあと家康は直孝に正式に井伊家の家督を継がせ、直継には上野安中藩三万石が分けられました。直継はのちに遠江掛川へ移り、寛文二年(1662年)七月十一日に掛川城で病死しています。享年七十三でした。
直継の家は、宝永二年(1705年)に井伊直矩(なおのり)が越後与板に二万石で封じられ、与板藩として幕末まで続きました。最後の藩主・井伊直安は大老・井伊直弼の四男です。戊辰戦争では宗家の彦根藩にならって新政府側につき、出兵した百六十六名のうち五名が戦死しました。明治十七年(1884年)、与板の井伊家は子爵となっています。
本家の彦根藩は、直孝の代に元和元年(1615年)・元和三年(1617年)・寛永十年(1633年)の三度、それぞれ五万石を加えられて三十万石となりました。彦根藩の最後の藩主・井伊直憲(直弼の次男)は、明治になって伯爵となり、貴族院の伯爵議員などを務めています。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、十八万石のこの藩はおよそ四千二百三十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。また佐和山藩があったのは慶安二年より前の時代です。
参考:Wikipedia「佐和山藩」「井伊直政」「井伊直勝」「彦根藩」「与板藩」「井伊直憲」
場所・アクセス・地図
佐和山の現地を歩いた記録
佐和山藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。
残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。



