【藩名】
膳所藩
【説明】
最後の藩主である「本多康穣」の時代に藩内では尊皇派と佐幕派が主導権をめぐって争いました。このため、将軍「徳川家茂」の膳所宿泊が中止になるほどであったが、やがて佐幕派が力を盛り返し、尊王派11名を処刑にしました。また尊王派の先鋒の「川瀬太宰」も新選組に捕えられ惨殺されます。川瀬太宰は筆頭家老「戸田資慶」の叔父でもありました。

その後その川瀬太宰が藩主に説いた尊皇論が功を奏し尊皇派が勢いを盛り返し、明治元年(1868年)の「戊辰戦争」では新政府側に与して桑名藩攻めに出兵しました。翌年、「版籍奉還」により康穣は膳所藩知事となり、明治4年(1871年)の「廃藩置県」で膳所藩は廃藩となります。その後、膳所県、大津県を経て、滋賀県に編入されました。佐幕派に殺された尊皇派11名は11烈士として安昌寺に祀られています。
膳所藩は1865年4月、全国に先駆けて「廃城願い」を出したことでも知られています。膳所城は湖に突き出た水城で、常に水との戦いが続き城の維持費がかさみ、藩財政は逼迫状態に陥っていたことも版籍奉還を率先して行った理由としてあげられます。
膳所城事件——将軍暗殺の嫌疑で十一人が死んだ
膳所藩の幕末を語るなら、まずこの事件です。
慶応元年(1865年)、長州征伐の指揮のために上洛する十四代将軍・徳川家茂が、東海道筋の膳所城に宿泊する計画がありました。ところが京都守護職のもとへ、膳所藩内に長州と通じて将軍暗殺を謀る者がいるという急報が入ります。宿泊先は変更されました。
藩内では尊王攘夷派の摘発が始まります。実際に長州へ出奔した藩士がいたことも嫌疑を強めました。捕らえられた十一人は、慶応元年十月二十一日、切腹または斬首に処されます。四人が切腹、七人が斬首と伝わり、切腹の場は安昌寺でした。のちに膳所藩十一烈士と呼ばれる人々です。
阿閉権之丞は禄高百五十石、大目付役と大砲隊長、勝手方元締を歴任した人物で、尊王攘夷を主張して処刑されました。ほかに保田信解、増田仁右衛門、田河藤馬允、横島錠之介、高橋作弥、大羽俊蔵、高橋雄太郎、渡邊惣介、深栖俊介、森喜右衛門の名が伝わります。ただし名前の表記は資料によって揺れがあります。
尊王派の指導者であった川瀬太宰は膳所藩家老の弟で、聖護院宮の御内の者の養子となって三井寺に住んでいました。慶応元年閏五月十三日に京都守護職の松平容保が捕縛を命じましたが、太宰はすでに逃れたあとでした。
顕彰の碑が建つのは、事件から六十七年後の昭和七年十月二十一日です。本多神社の境内に高さ一・九メートルの「旧膳所藩烈士の碑」が立ち、藩士十一人と脱藩した志士三人、あわせて十四人を顕彰しています。碑文と刻字は、烈士の一人である田河武整の子の手によるものでした。安昌寺には切腹した四人の墓が、本多家の菩提寺である縁心寺にも幕末の藩士の墓が残ります。
佐幕から勤王へ
元治元年(1864年)の禁門の変では、藩主の本多康穣が御所の警備を務めました。どの門を守ったかまでは確かめられていません。
翌年の膳所城事件で尊王派が壊滅したあと、藩論は佐幕に傾きます。ところが川瀬太宰が藩主にも説いていた尊王論はやがて盛り返しました。慶応四年(1868年)正月の鳥羽・伏見の戦いで膳所藩は朝廷の側に立ち、戊辰戦争では新政府方として伊勢桑名藩攻めに兵を出しています。開戦のとき康穣は三十二歳でした。
康穣は天保六年(1835年)の生まれで、安政三年に兄の隠居によって家督を継ぎ、明治二年に膳所藩知事、明治四年に免官となりました。明治十七年に子爵、明治三十五年には神道大教の第三代管長を務めています。没したのは明治四十五年二月でした。
全国に先駆けて城を壊した藩
膳所城は慶長六年(1601年)、徳川家康が大津城を廃して膳所崎に築かせた城です。縄張りは藤堂高虎、家康が天下を取ってから最初に築いた城とされ、大津城・坂本城・瀬田城と並ぶ琵琶湖の浮城の一つ、日本三大湖城にも数えられます。
その城を、膳所藩は自ら壊しました。明治三年四月、藩主の康穣が新政府へ廃城を願い出て、四月二十五日に許可されています。理由は、湖に突き出た水城で毎年莫大な修理費がかかるうえ、近代の戦争には役に立たないというものでした。建物は千二百円で売られています。廃城を全国に先駆けて願い出た藩として知られますが、その年については慶応元年とする資料もあり、分かれています。
売られた門は、いまも三つ残っています。膳所神社の表門は本丸の大手門を移したもので、脇戸付きの薬医門。篠津神社の表門は北大手門を移した高麗門で、本多家の立葵の紋がついています。そして鞭崎八幡宮の表門は南大手門を移したもので、こちらは大津市ではなく草津市にあります。三つとも国の重要文化財です。若宮八幡神社にも城門が移されたと伝わります。
本丸の跡は埋め立てられて陸続きとなり、膳所城跡公園として整備されました。石垣がわずかに残り、門が模して再建されています。桜の名所です。なお琵琶湖を行き交った丸子船を統制したのは彦根藩の船奉行で、膳所藩ではありません。
遵義堂と、天領・大津
藩校の遵義堂は文化五年(1808年)、十代藩主の本多康完が儒学者の皆川淇園の助言を得て開きました。手習と四書五経を学ばせ、幕末には蘭学と西洋砲術も加わっています。跡地には現在、滋賀県立膳所高校が建っています。
膳所の隣の大津は幕府の直轄地でした。大津代官所は明和九年(1772年)に復活したのち、幕末まで石原氏がほぼ世襲して運営しています。慶応四年に大津裁判所となり、のちの大津県、そして滋賀県の前身となりました。東海道の大津宿は元禄のころ人口一万九千を数えた宿場で、街道屈指の都市です。膳所の城は、その大津を京の側から押さえる位置に築かれていました。
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