潤井戸藩(潤井戸陣屋)/永井家2万4千石:永井尚政 下総古河藩へ転封のため廃藩

潤井戸藩(潤井戸陣屋) 永井家2万4千石 最後の藩主 永井尚政
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潤井戸藩(潤井戸陣屋)の歩み

元和五年(1619年)、武蔵国や近江国内に五千石を領していた「永井尚政」は、上総国市原郡潤井戸において一万石を加増され、一万五千石を領する大名に列したことから「潤井戸藩」が立藩されました。

寛永三年(1626年)、尚政の父である下総国古河藩主「永井直勝」が死去したため、直勝の遺領七万二千石の所領のうち、一万石が尚政の弟たちに分与され、尚政自身は残りの六万二千石と、もともとの所領である二万四千百石、そして新墾田の所領千四百石の合わせて八万九千百石を領する大名となりました。父の後を継いで下総国古河藩に移ったため、ここに「潤井戸藩」は廃藩となりました。

廃藩のあと—老中への階段の、最初の一段

潤井戸は上総国市原郡、いまの千葉県市原市潤井戸です。地名は「湿津(うるつ)」が転じたもので、南の水神谷から豊かな地下水が湧くことに由来するといいます。

元和五年(1619年)、徳川秀忠の側近だった永井尚政が加増を受けてこの村に陣屋を置き、藩が立ちました。「秀忠近侍の三臣」の一人です。元和八年には老中に就任し、寛永三年(1626年)に父・永井直勝の遺領を継いで下総古河藩主となり、潤井戸藩は約七年で廃藩となります。

上総の小さな陣屋は、幕閣の中枢へ駆け上がる階段の一段目だったことになります。

そして藩が消えたあとも、天和二年(1682年)までの五十六年間、永井家はこの地を知行地として持ち続けました。元禄十四年(1701年)の記録では旗本本多氏の支配となっています。

幕末の潤井戸がどこの領地だったかは、わかっていません。市原郡は天領・旗本知行地・藩領が複雑に入り組んでおり、慶応三年の時点で郡内に陣屋を置いていた藩は鶴牧藩だけだった、という一般的なことしか分かっていません。

潤井戸そのもので幕末に事件が起きたという記録も見つかりませんでした。ただし慶応四年閏四月の五井戦争は、同じ市原郡内での出来事です。潤井戸はその戦域の内陸側にあたります。

陣屋の跡は地元で「字殿台」と伝わり、いまは山林になっていて遺構の状態はわかっていません(本証寺の東側とする説明もあります)。

池田恒興を討った父・永井直勝

潤井戸藩の永井尚政の父・永井直勝は、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いで、羽柴方の武将・池田恒興を討ち取ったことで名を上げた人物です。恒興は織田信長の乳兄弟で、のちに姫路城を築く池田輝政の父にあたります。直勝はこの功で家康に重く用いられ、晩年には下総古河七万石あまりの大名となりました。

淀の城下を広げた永井尚政

潤井戸から古河へ移った尚政は、秀忠のもとで老中を務めたのち、寛永十年(1633)に山城の淀十万石へ移りました。淀城そのものは前の藩主・松平定綱が築いた城で、尚政は城下を広げ、木津川の流れを付け替える工事を行いました。淀川と宇治川・木津川が合流する水の要地で、京都と大坂をおさえる城です。この淀城は、幕末の鳥羽伏見の戦いで、退いてきた旧幕府軍を締め出して門を閉じる城となりました。

永井一族の幕末

尚政の家は、のちに子孫の永井尚長が延宝八年(1680)、増上寺での法会の最中に同じ役についていた大名に斬り殺されるという事件で領地を失います。家は大和の新庄(のちの櫛羅藩)一万石で再興を許され、明治まで続きました。尚政の弟・直清の家は摂津の高槻藩主として幕末を迎えています。

また、幕末に長崎海軍伝習所の総監や外国奉行を務め、最後は箱館で榎本武揚とともに戦った幕臣・永井尚志(なおゆき)も、永井一族の旗本の家に養子に入った人です。長久手で池田恒興を討った直勝の一族は、幕府の最後の戦いまで徳川の側にいたことになります。

同じころの日本—スペインとの断交

寛永元年 潤井戸藩の永井家が置かれていた寛永元年(1624)、幕府はスペイン船の来航を禁じ、スペインとの国交を絶ちました。スペインがキリスト教の布教を通じて日本を侵略しようとしているのではないかと疑ったためです。

鎖国への歩み こののち幕府は、日本人の海外渡航を禁じ、ポルトガル船の来航も禁じて、寛永十六年(1639)までに鎖国の体制を固めていきました。永井直勝・尚政の父子が幕府の重臣として活躍したのは、こうした外交の大きな転換の時代でした。

淀と宇治に名を残した殿様の最初の領地—永井尚政と潤井戸

部屋住みの殿様の領地

潤井戸藩(いまの千葉県市原市)は、永井尚政が父の永井直勝がまだ家督を譲っていない「部屋住み」のうちに与えられた領地です。尚政は慶長九年(1604年)に常陸で千石を得たのを皮切りに、武蔵菖蒲、近江、遠江と加増を重ね、寛永元年(1624年)には西の丸(大御所秀忠付き)の老職になりました。家格は譜代です。

潤井戸の地名と白幡神社

潤井戸は、古代の上総国市原郡「湿津郷」にあたる土地で、近くの遺跡からは「潤津寺ヵ田」と墨で書かれた土器が出ています。村の中を、内房の浜野と外房を結ぶ伊南房州通往還(いまの県道十四号)が通っていました。地元の白幡神社は、元和五年(1619年)に永井尚政がこの地に移して祀ったと伝わります。陣屋跡は「字殿台」と伝わり、いまは山林になっているとされます。

大浜生まれの父

尚政の父・永井直勝は、三河国大浜郷(いまの碧南市)の生まれとされます。直勝の父・長田重元は、家康の水軍の拠点だった大浜の羽城を守った人でした(大浜藩)。直勝は小牧・長久手の戦いで池田恒興を討ち取ったことで知られます。

淀の城下と宇治の興聖寺

尚政はのちに山城淀十万石の藩主となり、城下の拡張と木津川の流れを付け替える工事を行いました。寛永の大飢饉では領民の救済にあたり、茶人としても知られます。慶安元年(1648年)には宇治の興聖寺を再興し、境内の「淀藩主永井家墓所」は京都府の史跡になっています。正室は内藤清成の娘で、娘たちは柳河の立花家などに嫁ぎました。房総の小さな村から始まった殿様が、のちに京の南の守りを担う。潤井戸は、その長い道のりの出発点でした。

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